2016年3月23日水曜日

STAP現象、米国研究者キンガ・ヴォイニッツ博士らが発表…小保方晴子氏の研究が正しかったことが証明 | ビジネスジャーナル

STAP現象、米国研究者Gが発表…小保方晴子氏の研究が正しかったことが証明 | ビジネスジャーナル:






「細胞が一度分化したら未分化の状態に戻ることはなく分化が進んでいくだけであり、体細胞が再び未分化細胞になり幹細胞状態として身体組織をつくれるようになるということは断じてない」と云うのが生物学の長年の常識だった。これを門外漢の一般人である私が訳知り顔で地動説天動説に準えるツモリは無い。だが、通説を覆そうとする糸口を「一回性の事象」や「やや反復性の低い事象」に頼る事を許容できない人は、科学を語るベキではないと思うのだ。




その常識に小さな穴を穿った小保方氏が、米ハーバード大学留学時代にバカンティ教授の元で「生物には休眠状態の小さなサイズの細胞が眠っており、それが病気や怪我の時に多能性細胞となり修復機能をもたらす」とする研究を行っていて論文発表がされていて、その論文を手直しして(例の騒ぎで取り消された)早稲田大学院での博士論文となっていた。博士論文授与当時の小保方氏の研究は「生物の中に元々存在する多能性細胞の種」を探す事だったが、その研究が(例の・・・マスゴミが大騒ぎをして取り下げられた)「分化した細胞に刺激を与えて多様性細胞に変化させる」研究に変わっていった。




そして、マスゴミのシュプレヒコールに押されて研究不正の認定を受け「生物の中に元々存在する多能性細胞の種」研究も「分化した細胞に刺激を与えて多様性細胞に変化させる」研究も、ウソだとされてしまった。




科学史を紐解いてみれば判る通り、(アインシュタインもホーキングも)研究不正認定を受けそうな離れ業を後日告白している。


私は、過去記事でも書いてきた通り、現時点で人類の役に立つ成果では無いが、高度な発見に至る道筋の道標(マイルストーン)に成り得る事だと記してきたツモリだ。

偉人伝に名を連ねていて私も子供の頃に伝記を読んだ野口英世博士を例に挙げて恐縮だが、現代において微生物学の分野で評価できる仕事は伝記に書かれていた偉業には無い。気に成る方はWikiで野口英世博士を御覧になる事だが、それを読み終えても、野口英世博士を称える気持ちに曇りは生じない筈だ。

いつの頃からか、オールオアナッシングと云う子供染みた思想が日本全体を席巻している風に思える。世界を判りやすくYESとNOの2つに分化してしまうマスコミの愚民化戦略なのだ。これに乗せられた馬鹿な日本人の総意に怖じ気た理研が、実験部分ではなく論文構成上のミスを研究不正と認定した訳だ。この理研の決定は、多くの科学者のフロンティア精神を挫いたと思うのだ。そして、学位請求論文を本稿ではなく草稿の評価をわざわざ「調査報告書」で公開した早稲田大学も同罪だろう。我が国日本では、通説を覆そうとするとマスコミに潰される云う中世ヨーロッパに於ける教会による科学支配と何ら変わらない未開の国なのだ。(でも、今度はマスコミは、小保方氏の歴史的マイルストーンを挫いた理研と早大を科学進歩の敵として叩いたりして?)

尚、私は、米テキサス大学医学部ヒューストン校のキンガ・ヴォイニッツ博士らの「ネイチャー・サイエンティフック・リポーツ」掲載を受けて小保方氏のSTAP現象発表論文が事実だったと主張しているツモリでは毛頭無い。但し「やや反復性の低い事象」を成立させ得ている要素や要因を検証し積み上げ、反復性を高め続ける事で、科学的な再現性が得られた高度な発見に至る日が来るカモ知れないと期待しているに過ぎない。



当ブログ過去記事「新万能細胞 2014年1月29日水曜日

当ブログ過去記事「科学の商業化? 2014年12月18日木曜日

当ブログ過去記事「プライミング効果? 2014年12月22日月曜日



「科学の公準のひとつは再現可能性にある」とされており、偶発性(どうしてだか判らないが偶然出来上がってしまったモノ等)には科学が及ばないとされてきた。だが、自然現象の大半は「一回性」のモノとされ「それを成り立たせていると考えられる要素や要因」が莫大な数となる為か純然たる意味合いでの科学的再現性には至らない事象が多いのだ。ある特定の試行で得られた非常に反復性が高い結果が得られた場合、それは再現性とは呼ばず反復性が高いと称せられるのだろう。



科学論文の再現性を、門外漢の一般人も巻き込んで大騒ぎとなった今回の事件では、多くの不幸な副次的な事件を生んでしまった。命の発生の過程で「一回性」又は「反復性が高い」と称せられる事象を、人工的な手法で再現しようとする試みである。再現性が得られなければ、論文とすべきではない、科学で扱うべきではない研究だとでも(マスコミは)云うのだろうか?



門外漢の一般人は、予測不能な自然、訳の分からない自然を生活から極力閉め出して、予測可能な環境の中で、訳の分かる事象の内部だけで生活する事を望んでいる。科学がコントロール可能な世界の中だけに住んでいると、自然現象の大半が一回性でコントロール出来ないと云う事を忘れてしまう。多額の研究費を投じて得られた発見は、手っ取り早く人類の生活に役立つ訳の分かる事象とすべきだと思えてしまうのだろう。我々を取り巻く自然の成り立ちや営みは、神ならぬ我々がお手軽簡単に理解し尽くせる程に単純では無い筈だ。専門家同士の学術的な論争に門外漢の一般人がクチバシを突っ込もうとする事は愚かな事だったと中世に於けるキリスト教界の科学支配から学んでは居ないのか?



考えてみて欲しい。科学的な再現性が得られた高度な発見に至るには、偶発的に観察される事象を成立させ得ている要素や要因を検証し積み上げ反復性を高め続ける事で到達する筈である。そこに至る筈のマイルストーンを記す事が無意味だと云うのなら、未知へ立ち向かう人類のチャレンジを無意味だと云うのだろうか?

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