2014年12月18日木曜日

科学の商業化?







再現性とは、ある事象がテーマとなった時に、それを成り立たせていると考えられる要素要因還元したときに、同じ要素や要因を条件として整えた時に、再びまったく同じ事象が起こる性質をそなえていること。

これを備えている時は、再現可能な実験内容と手順に従って、異なった実験から同じ結果が得られるのなら、実験結果は妥当なものとされ、その事象は科学的再現性があるとされる。 (Wikipedia 再現性より)

「科学の公準のひとつは再現可能性にある」とされており、偶発性(どうしてだか判らないが偶然出来上がってしまったモノ等)には科学が及ばないとされてきた。だが、自然現象の大半は「一回性」のモノとされ「それを成り立たせていると考えられる要素や要因」が莫大な数となる為か純然たる意味合いでの科学的再現性には至らない事象が多いのだ。ある特定の試行で得られた非常に反復性が高い結果が得られた場合、それは再現性とは呼ばず反復性が高いと称せられるのだろう。



科学論文の再現性を、門外漢の一般人も巻き込んで大騒ぎとなった今回の事件では、多くの不幸な副次的な事件を生んでしまった。命の発生の過程で「一回性」又は「反復性が高い」と称せられる事象を、人工的な手法で再現しようとする試みである。再現性が得られなければ、論文とすべきではない、科学で扱うべきではない研究だとでも云うのだろうか?



門外漢の一般人は、予測不能な自然、訳の分からない自然を生活から極力閉め出して、予測可能な環境の中で、訳の分かる事象の内部だけで生活する事を望んでいる。科学がコントロール可能な世界の中だけに住んでいると、自然現象の大半が一回性でコントロール出来ないと云う事を忘れてしまう。多額の研究費を投じて得られた発見は、手っ取り早く人類の生活に役立つ訳の分かる事象とすべきだと思えてしまうのだろう。我々を取り巻く自然の成り立ちや営みは、神ならぬ我々がお手軽簡単に理解し尽くせる程に単純では無い筈だ。専門家同士の学術的な論争に門外漢の一般人がクチバシを突っ込もうとする事は愚かな事だったと中世に於けるキリスト教界の科学支配から学んでは居ないのか?



考えてみて欲しい。科学的な再現性が得られた高度な発見に至るには、偶発的に観察される事象を成立させ得ている要素や要因を検証し積み上げ反復性を高め続ける事で到達する筈である。そこに至る筈のマイルストーンを記す事が無意味だと云うのなら、未知へ立ち向かう人類のチャレンジを無意味だと云うのだろうか?








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