2015年7月16日木曜日

いじめ防止基本方針

いじめ防止基本方針の策定について(通知)文科省


日教組の重鎮で在らせられる輿石(元)参院議長が居られる民主党政権下では、いじめ根絶を金科玉条としてきたが、現政権下での今回の通知では「いじめはどの子供にも起こりうる、どの子供も被害者にも加害者にもなりうるという事実を踏まえ、児童生徒の尊厳が守られ、児童生徒をいじめに向かわせないための未然防止に、全ての教職員が取り組むことから始めていく必要がある。 」とした。

「いじめ防止基本方針」では文科省が、各自治体・各学校に「いじめ防止基本方針」の策定を義務付けたのだが、こんなモノは他のお役所仕事と同じで、文科省作成の雛形通りに各自治体・各学校が形だけ整備する代物になる事は既に明らかだ。雛形通りに作られた各自治体・各学校の「いじめ防止基本方針」ならば、今まで散見されたいじめ事件での各自治体・各学校のお粗末な事後対応は少なくとも文科省のお眼鏡に適うモノとなる筈だ。

私の別ブログ過去記事「いじめ問題・・・ 2012-07-12 22:03:34 」では、大人社会のいじめ構造と子供達が感じるだろう矛盾を原因の1つに挙げてみた。

成人した立派な大人で構成された我々の社会が、子供達に誇れる市民的成熟を果たせていない現状を鑑みても、学校で子供達に市民的成熟を支援するカリキュラムを組んでも無意味だろう。いじめは悪い事・・・だと誰もが言う。「何故、人を殺してはいけないのか?」と同じ切り口で、「いじめられる側は、いじめられるのは嫌なので、いじめは悪い事」なのだろう。何故、悪い事だと知っている「いじめ」が行われるのか?は、悪い事だと知っている窃盗や暴力や殺人が行われるのと同じく行為者側への何らかの現世的な利益があるから・・・だと思う。スッキリする、面白い、一緒になっていじめないと自分が次のターゲットになる・・・、こうしたいじめに纏わる現世的な利益を破壊する事こそが教育現場に於けるいじめ対策なのだろう。
岩手県内で中学2年の男子生徒(13)がいじめを苦に電車に飛び込んで死亡した事件でも、各マスコミは「明らかなSOSに対して担任が有効策を打てなかった事」に矛先を向けた。マスコミ報道に呼応してネットでも「上司に相談せずSOSを放置した担任の責任追及に躍起となった。中学2年の男子生徒が自殺をすると云う不幸な大事件を未然に防ぐ事が出来たのは担任だけだったと云う論調だ。

未然に防ぐ事を怠った担任は断罪されて然るべきだ、上司に相談できなかった学校の体制が悪である。そんな学校の体制を看過した教育委員会等上部組織は怠慢だ。業務を適切に遂行していないから、峻厳に責任追及され罰せられ排除されて当然なのだろう。そんな「出来の悪いモノ」は罰せられて当然なのだ・・・と糾弾する正義を語るマスコミは、我々大人世代には達成できなかった市民的成熟を、次世代を担う児童生徒だけに期待するのは虫が良すぎるのではないだろうか?

いじめを根絶すると云う世迷い言から一歩前進したものの、もう一歩前進して、そろそろ「いじめをなくす」から「いじめはなくならない」に発想を転換すべき時がきたと思うのだ。いじめに纏わる現世的な利益を破壊する事でいじめる側を挫くと同時に、この時代の地球人は未だ社会的に未成熟なので、いじめる事を止める事ができないと云う認識の上でいじめられる事にも耐性を付けていく必要があるのでは無いだろうか?




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