2020年2月10日月曜日

(受動意識仮説的)輪廻転生論



釈迦が説いた輪廻転生に於いて輪廻するのは魂の最深部(阿頼耶識)だけとされ、そこは意識に認識される事もなく何の記憶は宿らないとしている。だが、逆に輪廻転生の証しとされるのが宿らない筈の記憶を伴って生まれ変わりだと主張する者達の存在だった。仏典にも出てくるが釈迦は、生まれ変わりだと主張する人々を訪ねて色々と聞いて回ったのだそうだ。そして、六識の背後で働く自我意識(潜在意識を司る末那識)が極一部消え損ねて張り付いたモノと説明されていた。




現代精神医学に置き換えると表層意識が阿頼耶識、潜在意識が末那識となるのだろう。どうも釈迦は、受動意識仮説を認識していた風がある。自我を産むとされる表層意識たる阿頼耶識を軽視している感じだ。と、云うよりも・・・末那識の扱い範囲が広すぎるのカモ知れない。末那識は思い量る(慮る=あれこれ思推を巡らし深く考える事)の中枢であり現代哲学的な概念では人を人為らしめている人の中枢とも看做されている。そして、その末那識は人が人として生きてきた記憶の集積も司っている事になっている。そうした人を人足らしめる重要な精神機能の中枢である末那識を釈迦は染汚意(ぜんま・い)とも呼び我見,我癡,我慢,我愛を伴って我執の根本として汚れた心ともした。煩悩の中枢であり、それが阿頼耶識を汚す業(カルマ)生み、その悪いカルマに拠って人は悩み苦しむとした。つまり、人の本質とは我執に囚われ悩み苦しむモノと云う訳だ。





ヒンズー教の輪廻転生と云う考え方はシンプルに天界と人間界と地獄の3つの世界を行き来する素朴なモノだったが、釈迦が人として生きていた世界・時代では輪廻転生は疑う余地の無い常識とされていたので、これを否定する事は釈迦すら困難だったから「嘘も方便」として、「それ」が輪廻転生しようがしまいが無関係な魂の構造に於ける部分として阿頼耶識を想定したのカモ知れない。





キリスト教に於ける人の原罪とは「最初の人間アダムとイブが神にそむいて犯した罪の数々」を継承している事らしいが、釈迦の説いた原始仏教に於けるこの世に生きている命の原罪とは「不殺生戒」の拡大版の様なモノで「他の生物の命を奪わなければ自らの命を存続させ得ない世界に生きている事」である。そして、本質的に悩み苦しむように造られた末那識でしか世界を知覚出来ない事だ。





この原始仏教に於ける「原罪」を忌むべき事と感じるか否かで輪廻転生を絶ち切るべき悪しき事と捉えられるか否かが分かれる。そして、釈迦の説いた輪廻転生とは、魂の修行とかナントカと云った高尚な目的を持ったモノなんかではなく「分断生死」として、望むと望まざるに関わらず勝手に輪廻転生を繰り返してしまうと説いた。再び、この現実世界に生まれ変わると「他の生き物の命を奪わなければ自らの命を存続させ得ない世界に生きている事」と云う罪を繰り返して、汚れた「他の生き物の命を奪わなければ自らの命を存続させ得ない世界」での罪に満ちた一生を何度も何度も繰り返して死んでいく訳だ。凡夫は、そのまま惰性で輪廻転生を繰り返して弥勒菩薩が救済に来る迄未来永劫延々と原罪を犯し続ける事が運命付けられている。







因みに、56億7千万年後に未来仏で在らせられる弥勒菩薩が救済に来るとは・・・凡そ100億年の寿命を持つと云われるG型恒星である我らが主星である太陽が、中心核の水素を核融合で燃やし尽くして初期の副産物だったヘリウム等の重い元素の核融合を始めると太陽中心核の密度と温度がドンドン高まっていき膨張を7億年繰り返して160倍程度まで直径が膨らんで赤色巨星化する事は既に知られているが、現在太陽系誕生から46億年経っていて更に56億7千万年後である太陽誕生102億年後には、地球軌道は巨大化する太陽に飲み込まれていると云うシナリオである。天文学の世界では、その後の太陽は1億年ほど掛けて元の直径の2倍程度に収縮しヘリウムとヘリウム同士の核融合で産生された酸素や炭素が融合を始め更に重い元素を生成する頃には何度かのスーパーフレアや新星爆発を繰り返し太陽表面の大部分の層を吹き飛ばしていき最終的には地球の2倍弱の直径の燃え滓の(現太陽質量の9割程の重い高密度の)中心核だけの白色矮星と成り果てて陽子崩壊が引き起こす宇宙の終焉の時まで太陽系外惑星の主星を続けるのだろう。








つまり、凡夫・・・と云うか地球上に存在する大部分の生命は、地球上の全生命が絶滅する56億7千万年後まで「分断生死」として惰性で(全自動で)輪廻転生し続けるのだろう。そして、56億7千万年後には地球上に存在する大部分の生命の因果の尽きるのだ。








つまり、原始仏教の究極目的である「輪廻転生からの解脱」とは、今の生を忌むべき罪と感じるか否か、再び生まれ変わって原罪を冒したくないと思う少数派が再び全自動で生まれ変わる事を拒否する方法を探る哲学なのだと思う。




因みに、六道輪廻として天道・人間道・修羅道・畜生道・餓鬼道・地獄道と云う世界観を造ったのは釈迦入滅久しい後の世である。全自動でこの世に生まれ変わってしまう事が忌むべき事・避けるべき事と思えない凡夫達を相手に、哲学ではなく宗教としてエッセンスを購わせる為には不可欠だったのだろう。





釈迦が本当に真理を知ったのなら、恐らく、表層意識はバーチャルなモノとの認識は有った筈だ。それでも釈迦は輪廻転生を否定しなかった。それどころか、過去から未来への輪廻転生のみならず、未来から過去への輪廻転生でも同じだと説いたのだ。それどころか、現在生きて生活している人同士の「それ」を入れ替えても当人すら気がつかない事もあると説いた。阿頼耶識を含む魂の構造である八識を生み出した唯識論は、釈迦入滅後の後世に釈迦の説いた真理を理解し損ねた後継者達が知恵を絞って、現世を生きる人間感覚との融和を図った結果なのカモ知れない。





受動意識仮説では、デカルトが「自我」だと哲学した人を人たらしめる魂の根源たる中核をバーチャルな存在だと見破った。実は、受動意識仮説提言以前にも多くの思推家や哲学者や心理学者は、受動意識仮説とほぼ同じ結論に気がついていた。受動意識仮説に於ける「自我」とはエピソード記憶を生成する為の方便に過ぎない。何故なら、人の魂の思推の流れは高度に多重化並列化された再帰する超深層畳込処理であり、それこそ複素平面記録でも無いと全プロセスのバックアップを取る事は不可能だから、因果律に囚われる事で進化した脊椎動物の脳髄が必要とする有効な省力化情報である因果(「原因」と「結果」)の情報の蓄積をする為に生み出されたバーチャルな存在に過ぎないのだ。






我々自身が、我々自身だと錯覚している「表層意識」と云う存在こそが、輪廻転生しても、或いは、今生きながらに目の前の人の「それ」と入れ替えられたとしても我々自身はそれと気が付かない筈だ。それどころか、人間である私の「それ」と抱いているペットの愛犬の「それ」が入れ替わったとしても、私自身には気がつかないのカモ知れない。






我々が表層意識と呼ぶ「それ」は、自らで自らの体をコントロールする能力も持たず、自らの感覚器官からの情報である感覚を知覚する能力も持たず、自らの体験を蓄積した記憶を思い出す能力も持たず、自らの意思を発現する能力も持たない。只唯一の機能が、人間の思推と感覚と感情を含む知覚をエピソードとして再構成する事だけだ。万物の霊長たる人間様の「それ」の能力と犬っころの「それ」の能力には大きな差があるのカモ知れないが、入れ替えた処で能力低下を知覚したりするとは思えない。人のヒトたる由縁の高度な思推を為す主体は、知覚されないから記憶には残らない高度に多重化並列化された再帰する超深層畳込処理の流れであり、人の脳髄が行うディープラーニングとは記憶と云う記録ではなく脳髄のニューラルネットワークの最適化進化による高度に多重化並列化された再帰する超深層畳込処理の流れの進化である。






人は誰しも死を恐れるが、その対象は高度に多重化並列化された再帰する超深層畳込処理の全体流れと云うより、我々が通常呼び出す事が出来る記憶を執筆した「表層意識」だと錯覚している「それ」の死を恐れてしまいがちだ。子供の頃に、電気信号パルスで成立している「表層意識」こそが自分自身の中枢だと思っていて、眠る事は「表層意識」の死だと戦慄した記憶があるが、多少の能力差はあるのカモ知れないが「表層意識」は代替可能なモノだと思い至ってしまう。






我々が表層意識と呼ぶ「それ」を、我々自身の将来に有益で効率的なエピソード記憶を生成する様にチューニングする事が出来れば素晴らしいだろうが、それが進化するのか否かは判らないが、サブシステムである「それ」を生成する為の神経回路が最適化進化を経る事で恐らく可能となると思われる。だがしかし、そうやって進化した「それ」が愛犬の「それ」と入れ替わって生成されたエピソード記憶の品質が大幅に低下したとしても、そのエピソード記憶が以前のバージョンの物より劣っていると知覚する能力を持ち合わせない限り、「それ」の入れ替わり・・・輪廻転生の認識は持ち得ない事になるだろう。





そう云う意味合いで、前世の記憶を持たず、前世で経験した事で癖が付いた阿頼耶識で「他の生き物の命を奪わなければ自らの命を存続させ得ない世界に生きている事」を認識させ全自動で行われる輪廻転生から解脱する事を方向付けて行く事は生半可な事では無いと気がつかされる。




そして、その仏教の最終目的である「輪廻転生からの解脱」を果たす原動力が輪廻転生を繰り返す「魂の一部」に刻んだ癖に因るとして、その魂の一部に癖が蓄積されていく事の証しは疎か、輪廻転生する魂の一部の存在すらも証明されていない事は余談かも知れない。だが、先進国に端を発した少子化や晩婚化や未婚化が、単に人口爆発への危惧からだけとは言い難い。勿論、優れた社会保障制度の成立や、刹那的個人主義の台頭が少子化や晩婚化や未婚化の原因であると思うが、極々僅かでも、「他の生き物の命を奪わなければ自らの命を存続させ得ない世界に生きている事」は忌むべき事と「魂の一部」に刻んだ癖に因る指向性が影響したとすれば、我々人類は弥勒菩薩の救済を待たずに因果を閉じる(人類絶滅する)のカモ知れない。




気がついた者だけが輪廻転生から解脱すると云う原始仏教から、全人類を緩やかな絶滅に誘う癖を魂に刻む「個人主義の台頭」こそが釈迦入滅後に変遷した釈迦哲学の成れの果てなのだろうか?





それとも・・・

0 件のコメント:

コメントを投稿