2019年12月12日木曜日

我が国の科学技術の凋落の原因

日本の科学技術は世界でも高いレベルにある・・・と思っている日本人が多い様だ。自分自身は科学技術に於いて世界的権威では無い事は分かっているけど、日本には凄い世界レベルの科学的権威の日本人が多く居て世界の科学技術の先端を走っていると思っているのだ。




1980年代 『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One 米国の社会学者エズラ・ヴォーゲル著)が日米でベストセラーになり、実際に著作を読んだ訳でも無いのに多くの日本人が「言葉の響き」に浮かれたのだそうだ。オイルショックを乗り越えて高度成長期の集大成として日本の科学技術も非常に高いレベルにあったと思う。そして、ニクソンショックで行き場を失った全世界の浮動資産が日本に流入しバブル経済が開始した。ジャパンマネー(実際は、行き場を失った全世界の浮動資産)が全世界を席巻し、欧米の資産を買い漁った。その有様に誰もがジャパン・アズ・ナンバーワン!と思ったのだろう。





だが現在は、最近の世界に於ける日本の大学ランキング、基幹特許の数、論文がリファレンスされている量等々の科学技術レベルの指針から見えても大きく我が国の科学技術レベルが甚だしく凋落した事は明らかだし、時価総額で比べた日本の大企業の世界順位やブランドランキングを見ても我が国の凋落は明らかだ。ここでは敢えて引用はしないが、最近の科学技術関連の、そういった指針を御自身で検索して見れば明らかだと思う。






昔々、小学校で習った事・・・資源の乏しい日本では加工貿易(原材料や半製品を他国から輸入し、それを加工してできた製品や半製品を輸出する貿易)で日本は儲けていると、今でも多くの国民は思っていて、加工貿易に有利な様に円安基調が我が国には有利だと多くの国民が思っている事と同時に、証拠として毎年日本の研究者がノーベル賞を受賞し続けている現状からも日本は科学技術先進国だと盲目的に多くの国民が信じているのだ。(ノーベル科学賞は過去の研究成果に与えられる賞であり、過去の日本には優秀な研究者や研究があったと云う証ではあっても、現在の日本の科学技術が世界レベルである証では無い)






では、何故我が国では科学技術先進国で無くなりつつあるのか? だが、それは漢字教育の衰退が原因だと・・・私は考えている。漢字発祥の中国では、古代中国の四大発明として、紙(製紙技術)・印刷術・火薬・羅針盤の発明も、スパイスや調味料、漢方薬、鍼灸術、日時計や天体観測、算盤(計算機)、ポンプや機械類、今日の人類文明の基礎の大部分は4000年以上前の中国で発明されている。何故、当時の中国は科学技術を進歩させる事が出来たのか・・・それは漢字を使っていたからだと考えている。








現代の世界では日常では殆ど使われなくなったラテン語だが、各種学会・医学・自然科学・数学・哲学・工業技術など各専門知識分野では、世界共通の学名としてラテン語名を付けて公表する伝統があり、新発見をラテン語の学術論文として発表するなど、根強く用いられ続けている。

ヨーロッパではラテン語は長い間教会においても学問の世界においても標準的な言語として用いられてきたが、ルネサンスと共に古典古代の文化の見直しが行われ、古典期の文法・語彙を模範としたラテン語を用いようとする運動が人文主義者の間で強まった。これにより中世よりもむしろ「正しい」ラテン語が教育・記述されるようになる。共通化が進んだラテン語は、近代においても広く欧州知識人の公用語として用いられた。(日本語 WiKi ラテン語より抜粋)



ラテン語は、語源毎の単語を組み合わせて新しい単語が作れる点が、各専門知識分野で使われ続けている理由だ。逆に、知らない単語でも、含まれる語源の明らかな単語に分解すれば、何と無く意味が分かる・・・意味は分からなくても何系の単語かは分かるし、語源毎の読み方さえ知っていれば知らない単語でも読める。




この性質は、全く以て漢字の性質でもある。漢字は、世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)と呼ばれる人類史黎明期の古代文明の頃に発明され、現在でも唯一使われ続けている文字である。(他の、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明で使われていた文字は、現在では使われていない)






ラテン文字に代表されるアルファベットは音を表記する表音文字だが、漢字は音と同時に意味を表す表音表意文字だ。更に、漢字の多くは複数の漢字を集めて、音と意味を足しあわせる事で新たな意味を持たせる事が出来る・・・恐らく人類史上最強の文字である。





英語を覚える際に、英単語の多くはラテン語が起源で語源を知ると覚えやすいと習った世代だ。例えば、"survive" と云う単語は、ラテン語の “super” (上・超えて)が起源の接頭辞 "sur" とラテン語の "vive"(生きる)を合わせて、「超えて生きる」=「生き残る」となる。





接頭辞 "sur" を覚えさせすれば、"surprise" も "sur"(上・超えて) + "prise"(つかまえる)=上からつかまえる=驚かす、"surface" も "sur"(上・超えて) + "face"(面)で「面の上」=「表面」、"surcharge" も "sur"(上・超えて) + "Charge"(積む・詰める)で「超えて積む」=「積み過ぎ」=「超過料金」、"surpass"も "sur"(上・超えて) + "pass"(通過する)で「超えて通過する」=「○○を超える」「超越した」「優れた」となる。






漢字も、「上」①うえ。うわ。かみ。うえのほう。高いほう。 ②年齢・地位・身分などが高い。 ③程度が高い。よい。すぐれる。 ④順序が先のほう。まえ。 ⑤あがる。あげる。のぼる。高いほうに動く。



「下」①した。しも。うしろ。場所・身分・程度が低い。 ②もと。ほとり。高いもののそば。「 ③くだる。さがる。おろす。低いほうに動く。また、動かす。



「山」①やま。高く盛り上がった地形。 ②やまのように盛り上がること。 ③鉱物を産出するやま。 ④寺院の称号につける語。



と知っていれば、部首に「上」が含まれる漢字は、読みは分からなくても「上」に関する意味だと想像がつくだろう。



「卡」は読み方は分からなくても、上と下に挟まれている意味だと分るだろう。それに峠は、山で上と下に挟まれている=とうげだと分るだろう。




ラテン語で"aqua"が使われていれば水系・液体系の単語だと分るだろうし、漢字でも「氵(さんずい・水部)」を使っている漢字は水系・液体系だと想像がつくだろう。




こうしたルールに基づいて整備されているので、
ラテン語は造語が容易に可能でラテン語の学名は体系化が容易いと云われるのだが、だが4000年以上前に発明された漢字もラテン語以上のパワーを秘めている。漢字には、形で抽象化や概念化を伝える働きもあり、部首の由来や語源からきちんとした漢字学習を行えば、漢字で行う教育はラテン語で行う以上の学習効果があると思うのだ。




昨今、理系推し、科学技術推し、そして国際化推しの傾向が強いが、日本語での教育を行なっている我が国では、今日まで人類が蓄積してきた「知識や知恵」は国語を通じて獲得する事になる。そして、それが知的活動の基盤となり国語を通じて、あらゆる知識の獲得と能力の形成が実現されるのだ。同時に、国語は各人の論理的思考力の基盤でもあり深く思考する為には国語力(語彙力)が不可欠で、各人の思考は国語に拠って行われている事から、論理を身につける為には国語の運用能力が重要な役割を果たしている。そして、更に長期的な展望に立っての大局的な判断は、理性や論理だけではなく深い教養が必要とされ、教養の体得には日頃から活字文化に親しんでいる事が重要だとされる。




又、我が国の素晴らしい先人達が築き上げてきた日本語文化に拠って、美しい日本語表現やリズム、人々の深い感情、自然への繊細な感受性から美的感性や豊かな情緒を培い、勇気・誠実・礼節・愛・倫理観・正義・信義・郷土愛・祖国愛等の情緒の表形も文学等を通して通して身に付けることが出来る事から、国語は感情や情緒の基盤を為すとも言えるだろう。




そして、更に、国語の最も基本的な役割である意思や感情などを伝え合いコミュニケーションを成立させる能力に拠って、国語は個人が社会の中で生きていく上に欠くことの出来ない重要な役割を担っているのだ。 コミュニケーションの基本は、相手の人格や考え方を尊重する態度と言葉による伝え合いであり、国語の運用能力がその根幹となっている。






又、言葉によって多様な人間関係を構築することのできる「人間関係形成能力」や目的と場に応じて「効果的に発表・提示する能力」は、現在の社会生活の中で強く求められている能力の一つであるが、これらの根幹にあるのもコミュニケーション能力であり、国語の力である。




こうした意味合いで国語力を他教科より重要視した頃の教育と、数学・科学に偏重した今日の教育下では、大きく異なっているのだと思う。今日の国語教育、特に漢字教育の手抜きが我が国から他国に勝る優位性を削ぎ落としているのだと思っている。





では、4000年以上前から漢字を使っていた中国は、どうだろうか?




我が国は、漢や唐の国から多大な先進的な知識や技術を教わって文明を学んだ。例えば、論語から礼の大切さを教わり教えに従い中国へも恩返しに努めてきた。現在、中国で使われている中国語の半分以上は、我々日本人が作った物を逆輸入しているのだ。例えば、現在の中国の正式な国名も和製漢語と云われている。



幕末以前[編集]

日本語では古来、中国から大量の漢語、すなわち中国語の単語を借用してきた。漢語の造語法に習熟するにしたがい、独自の和製漢語を造るようになった。その造語法をみると、まず漢字で表記した大和言葉を音読したものがある。例えば、「火のこと」を「火事」、「おほね」を「大根」、「腹を立てる」を「立腹」とする類である。また、中国語にない日本特有の概念や制度、物を表すために漢語の造語法を用いたものがある。「介錯」「芸者」などがその例である。
(日本語Wiki  和製漢語から引用)


かお、め、はな、みみ、て、あし、あるく、はしる、たべる、みず、たべもの、そら、うみ、かわ等々の古代からある最も原始的な言葉(単語)は、どこの国にも外国人から教わらなくても元々存在する。その様な単語は2000語程度で、人類の社会や科学技術が進歩する事に拠って、新たな概念に対する言葉や、新たに発明された物の名前等、次々に新しい言葉を生み出していかなければならなくなる。そして、我々現代人は、数万の言葉を知らなければならなくなった。

幕末以後[編集]

19世紀後半には、西洋の文物・概念を漢語によって翻訳した和製漢語が多く作られた。これらを「新漢語」と呼ぶことがある。ただし、新漢語の割合は漢語全体から見れば必ずしも多いわけではない。第二次世界大戦後の調査によれば、新聞雑誌の二字漢語の上位1000語のうち、902語は幕末までに存在したものである[4]
新漢語は2種に分けられる。1つは、「科学」、「哲学」、「郵便」、「野球」など、新しく漢字を組み合わせて作った、文字通り新しい語である。もう1つは、「自由」、「観念」、「福祉」、「革命」など、古くからある漢語に新しい意味を与えて転用・再生した語である。後者を狭義の和製漢語には含まないこともある。近代以降は、「 - 性」、「 - 制」、「 - 的」、「 - 法」、「 - 力」や「超 - 」などの接辞による造語も盛んになり、今日でもなお新しい語を生産している。
和製漢語は特に近代以降、中国に逆輸出されたものも少なくない。中国が近代化を遂げる過程で、特に日清日露戦争前後に、中国人留学生によって日本語の書物が多く翻訳されたことが大きいともされる。中国語になった和製漢語の例として、「意識」、「右翼」、「運動」、「階級」、「共産主義」、「共和」、「左翼」、「失恋」、「進化」、「接吻」、「唯物論」など種々の語がある。中国でも自ら西洋語の翻訳を試み、華製新漢語中国語版なるものを作り出していた。しばしば和製漢語と競合するようになることもあった[5]
「中華人民共和国」の「人民」「共和国」も和製漢語であり、国名だけでなく中国の体制に必要不可欠な概念までも和製漢語には含まれている[6]。また、同じく漢字文化圏である台湾大韓民国ベトナムでもこうした和製漢語を自国語漢字音で取り入れている。これには日本では和製漢語とは見なされない漢字書きの訓読み和語(割引など)も含まれている。
(日本語Wiki  和製漢語から引用)




現在の日本で使われている高度な概念の大半は江戸時代末期から明治初頭にかけて欧米から一気に流れ込んできた概念であり、それを日本人はその高度な概念に対応する漢字表現を「漢語に於ける造語法のルールに忠実に従い」創出する努力をして、数万の和製漢語を作りました。中国人は為政者が変わる度に、過去の歴史や技術体系を捨て去るので「漢語に於ける造語法のルールに忠実に従い」新しい概念に対する新造語を作らなかったので、中国製の華製新漢語の多くは廃れてしまったのだ。結局、そういった概念は日本から輸入し、なんと、現在の中国語の半分以上が和製漢語で出来ている。こうして、我が国日本は、現在の中国の知的土台を作り上げ提供する事で、中国から賜った多大な恩に報いる恩返しを果たし中国への感謝を表している訳だ。





こうして、ラテン語が口語言語から学術言語として昇華した様に、「漢語に於ける造語法のルールに忠実に従い」作られた和製漢語が使われた日本語は口語言語と学術言語を兼ねる世界最高の言語となったのだ。その国語の根幹である漢字教育をお座なりにして、理系教育に偏重する今日の日本の学習傾向の延長線上には我が国科学技術の凋落が明らかなのだが、それが偉い人には解らないのだろうか?又は、行政府としての日本政府は、日本国民を白痴化した方が為政者には都合が良いと云う事だろうか?





4000年の歴史を持つ漢字を、簡体字に切り替えようと躍起になったのは中国共産党が政権を握ってからだ。私と同世代迄の高齢な中国人は、古代の人が壁や石碑などに彫った文字や歴史的建造物に残された対句詩等を理解出来るそうだが、最近の中国人の若者は理解することが出来ず、古文は疎か、香港や台湾の現代小説を読むのも一苦労なのだそうだ。 古文を読むことは、自国の伝統や文化を理解するのに非常に重要である。多くの図書館には本来の正体字である【繁体字】で書かれた古文が多数存在するが、それらを検索するには簡体字は使えない。簡体字の利用に依って、【繁体字】を利用する台湾との文化的交流にも齟齬が生じ、大陸の若者が香港や台湾のメディア情報を読むのに苦労する。中国語、そしてそれを書き表す中国漢字は、長い歴史を有する中華文化の体現である。中国共産党は、樹立した新政権を強固にするには、その悠久の歴史を有する文字を解体して、新しい文字を利用すれば効果があると判断したのだろう。




ゆとり教育は日本国民総白痴化を目指すモノではなく、
詰め込み教育」と言われる知識量偏重型の教育方針を是正し、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型の教育方針をもって、学習時間と内容を減らしてゆとりある学校を目指した教育(日本語Wiki ゆとり教育から抜粋)なのだそうだ。だが、ゆとり教育の問題を解消しようとした脱ゆとり教育では大きく割愛された漢字学習は戻さず理系科目と英語教育に大きく学習主軸を置いたモノだ。





ゆとり教育世代の子供を持つ親として、ゆとり教育は間違いだったと明確に認識出来るが、上記の事より脱ゆとり教育にも我が国行政府が標榜する効果は期待出来ないと考えるのだ。土台となる基礎的知識の少ない小中学生に対して、「自由に創造しなさい」と言っても、多くの児童生徒には困惑する場合が多く、結果も成熟度の無い未熟なものにしか成り得ない。日本が世界に誇れる学習要領とは守破離だと思う。

詳細[編集]

千利休
守破離に基づいた平成中村座
もとは千利休の訓をまとめた『利休道歌』にある、「規矩作法 り尽くしてるともるるとても本を忘るな」を引用したものとされている。
修業に際して、まずは師匠から教わったを徹底的に「守る」ところから修業が始まる。師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とそのについてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのである。
「本を忘るな」とあるとおり、教えを破り離れたとしても根源の精神を見失ってはならないということが重要であり、基本の型を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めるのはいわゆる「形無し」である。無着成恭は「型がある人間が型を破ると『型破り』、型がない人間が型を破ったら『形無し』」と語っており、これは十八代目中村勘三郎の座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」としても知られる。
個人のスキルを表すため、茶道、武道、芸術等、あるいはスポーツや仕事等々において様々な成長のプロセスに用いることが出来、以下のように当てはめることができる。
  • 守:支援のもとに作業を遂行できる(半人前)。 ~ 自律的に作業を遂行できる(1人前)。
  • 破:作業を分析し改善・改良できる(1.5人前)。
  • 離:新たな知識(技術)を開発できる(創造者)。
(日本語Wiki 守破離 より抜粋)


特別な能力を持たない人が、十分な基礎知識を学ばぬままで新たな発見や発明は疎か、十分基礎知識を学んだ先輩にも遠く及ば無い事は改めて申し上げる必要は無いだろう。








ピアノの基礎訓練を経ずに名演奏が出来たり名曲が作曲できたりするのは、その人の天才的な才能に因るモノで、学校教育が天才を生む事の出来ない事は歴史が証明している筈だ。








そして、基礎学習とは詰め込み以外の方法で習熟させる事は難しい。せめて義務教育である小学校・中学校の間は旧学習要領で詰め込んで、高校・大学はゆとり教育で創造性を育ててみては如何だろうか?