2020年3月18日水曜日

ひたすら安心を追い求め、そのためにリスクを過大評価する非合理的な行動は、人類を滅亡させかねない。

当初、欧米の人々は新型コロナ肺炎騒ぎとは極東アジア(中国・韓国・日本)の問題だと傍観していた。そして、国内の混乱ぶりを外信し続ける日本のマスコミに拠って全世界に公開された日本の対応を愚かだとせせら笑っていたし、正義感からか商売からか日本の対応の拙さを徹底的に批判していた欧米メディアは多かった。そして、欧米諸国では、日本の様な愚かな混乱は起こらないと思われていた。

だが、新型コロナ肺炎騒ぎは世界中のものとなった。日本の対応を愚かだとせせら笑っていた国でも、新型コロナ肺炎が自分達の身の回りに飛び火した途端に狼狽え、せせら笑っていた筈の日本の混乱以上の愚かな混乱に陥っている。

ここで、欧米諸国の為政者の愚かさを批判するツモリは毛頭ない。最終的に、我が国方式が良かったのか、韓国式が良かったのか、米国式が良かったのか、イタリア式が良かったのか、スペイン式が良かったのか、フランス式が良かったのか、東南アジア諸国の対応が良かったのか、等々は将来の歴史が判断する事だと思うが、現時点に於いて考えれば、我が国日本の対応は混乱の中で比較的に良い選択をしたと(私は)思っている。(WHOの呼ぶパンデミックの中心である欧州に於いても致死率を低く留めたドイツ方式が最良だと云うのは云うまでも無い。世論に迎合せず科学的に最小限必要な事を正確に実施した事が功を奏したのだろう。我が国は、感染初期の段階で国民も飽き飽きしている桜を見る会攻勢で我が国国会を空転させた売国政党に迎合して世論対応にも心を配った結果、科学的に防疫の観点からの最良の選択が出来なかった事は残念だが、我が国日本の対応は及第点だと思う。(検査数を増やしていれば致死率の数字的には下げられたと思うが、そんな統計のマジックに迎合せずに最大限重症者を救うと云う見地から見ればドイツ方式にも引けを取らないと思っている)

新型コロナ肺炎は、タチの悪い風邪の仲間入りをさせるにはタチが悪すぎるが、それでも国民の多くが感染し多くが自然治癒して免疫を得て社会全体で集団免疫として感染拡大を食い止めていくしか無いと別ブログ過去記事にも書いた。

別ブログ過去記事  新型コロナウイルス 感染症 2020-01-31 20:38:51 | 時事草論

この場合の致死率が、季節性インフルエンザより高いのか低いのか現時点での知見では定かでは無いが、社会が集団免疫を得る頃には季節性インフルエンザより致死率が低い事が立証されると思う。来年以降はタチの悪い風邪の一種として対処していくしか無いだろう。だが、我々地球人類は今後も人類が免疫を持たない新種の感染症の危機に瀕する事は約束されている事だ。

この傾向は2009年の豚インフルエンザ騒ぎの時にも起きた事だ。流行初期にメキシコにおける感染死亡率が非常に高いと報道された事に端を発して(今回の新型コロナウイルス 肺炎騒ぎ程では無いが)一時期は全世界的に軽いパニックに陥ったモノだ。だが、豚インフルエンザはA型インフルエンザH1N1亜型だったので、人類の多くが近縁種への免疫を持っていた事から早い段階で危機論は去り、翌年以降は一般の季節性インフルエンザの仲間入りを果たした訳だ。だが、現在に於いても豚インフルエンザ向けを含む4価ワクチンが選択されている事からも、人類への危機は去ったと断言出来ない状況なのだ。新たな新型インフルエンザが鳥類の中で産まれトリ→ヒト感染を経て人類を大量死させる、又は、絶滅させると云う新型インフルエンザへの備えの他に、ヒト以外の生物を経由して鳥類由来の新たな新型インフルエンザが人類を大量死させる、又は、絶滅させる危険性に気がつかされた事件だった。そして、蝙蝠類由来のコロナウイルスがヒト以外の生物を経由して人類が免疫を持たない新型感染症としてヒト→ヒト感染を起こしたのは、サーズ(重症急性呼吸器症候群 SARS: severe acute respiratory syndrome)、そして、マーズ(中東呼吸器症候群 MERS:Middle East Respiratory Syndrome)だった。そして、今回の新型コロナウイルス肺炎だ。これにエボラ出血熱AIDSを加えても良いと思うが、私が産まれて以降に発見されたヒトヒト感染をする新種のウイルス疾患の原因は、ヒトとヒト以外の生物との濃厚接触に端を発していると断言しても良い。この手の新種のウイルス疾患を発生させない為にも、ヒトとヒト以外の生物との濃厚接触を避けるべきだと思う。今回WHOは習近平に(小金でも掴まされて?)丸め込まれて武漢とも中国とも命名されなかったが、新型感染症には地名を入れてヒト以外の生物との濃厚接触を彼の国らに禁じて頂きたいモノだ。だが、新型感染症は、人類を滅亡の危機に陥れようと次々に発生していくだろう。21世期になって、ヒト以外の生物との濃厚接触が人類の危機になる新種の感染症発生の原因であると判明した後でも、止める事が難しい人類の悪習なのだろうか?


だが、今回のネタは別の話だ。人類が陥り易い別種の悪習として「安心追求の為に、リスクを過大評価する悪習」を挙げたい。


当初はリスクを過少反応し、その微小なリスクを自分の都合に合わせてゼロと解釈し、次にその微小をゼロと無視し続けられなくなった瞬間に、その微小確率を異常に過大評価するのは、人類の悪習であると歴史が証明している。とりわけ金融危機や災害などの危機のときにはパニックとなり、それが何十倍ものひずみとなって、拡大された愚かさとして社会に現れるのは、人類の歴史そのものでもある。

ひたすら安心を追い求め、その為にリスクを過小評価したり、その反動としてリスクを過大評価する非合理的な行動は、人類を滅亡させかねない悪習だと、人類社会の発展を大きく阻害する悪習だと歴史が証明している。

人々は安心を求めている。危機に直面したときは尚更だ。その恐怖感を打ち消し、恐怖から開放される為ならどんなコストも省みない。それは現実逃避の時もあるし、過剰反応で全く必要のない無関係な撲滅運動に発展する時もある。

人類史上で疫病や飢饉が発生した際に繰り返された魔女狩り等と物騒な言葉を使うまでもなく、安心の為に国民全体が抗菌ヒステリーに陥り科学的には全く効果効能の無い抗菌グッズやマイナスイオン商材が流行る日本であるから、ベネフィットの乏しい(無い)似非科学の商材にコストを省みずに虜になるのは日常茶飯事だ。

津波が襲った後は、巨大な防潮堤作りに必死となり、津波以外の災害に対する対応が手薄になってしまう。放射能に怯える余り、科学的に十分安全だった除染の基準を無駄に引き下げ、除染した土の持って行き場に困り、無駄に金を使い、結果どこも安全にならない。子供たちは、必要以上に屋内に閉じ込められ、精神的な安定性を失い、バランスからすれば被害は拡大した。農作物や魚の風評被害についてはいうまでもなく、科学的な裏付けの無い似非安心を得るために消費者は不必要に避ける事で多くの地域の農業水産業を苦しめた。福島第一原発での多核種除去設備の処理水問題(トリチウム問題)もそうだ。私の周囲の反対論者は、トリチウムが何かを知らない。そして、他国の原子力施設では例外なく排水投棄されている事も知らない。トリチウムと云う名前だから駄目で、三重水素や三重水なら案外スルーされるのかも知れない。重水や三重水は、少し遠い将来には核融合炉の燃料にすべく自然界に大量に存在する海水から効率的に取り出す技術が発明されるカモ知れないが現時点ではベネフィットに見合うコストで取り出す事は難しい。(でも、海洋投棄が世論と折り合わなければ、沸騰させて水蒸気にするしか無いのか?)

そもそも津波に拠って全電源喪失した福島第一原発でメルトダウンが起きた唯一の原因は、本来の手順に従って非常用炉心冷却装置(ECCS、Emergency Core Cooling System)を起動しなかった事の1点以外に存在しない。「東日本地震が発生してから、津波が福島第一原発に到達するまでの約50分間に、最初に起動しておくべきだった原子炉の緊急冷却装置を起動しなかったのはなぜか」というのが根本的な問題だ。30分以上の全電源喪失はあり得ないと操作マニュアルを変更したのは東電だが、ならば全電源喪失30分後に非常用炉心冷却装置を起動する電力を確保しなかった事、その電力を確保せずにマニュアル変更を認めた原子力安全委員会の落ち度である人災こそが事故原因だ。では何故東電は早い段階で非常用炉心冷却装置を作動させたく無いかだが、電力会社は炉心を水浸しにして多額の修復費用が掛かる事を嫌ったからだ。それが非常用炉心冷却装置を作動させなかった事が唯一の問題だったのに、想定に反して地震の規模・範囲が大きく送電網が途絶した事、想定6mとされていた到達津波高が15mに上方修正されたのに東電は津波防潮堤の嵩上げをしなかった事で押し寄せた津波に自家発電装置が冠水した事とかを原因に挿げ替えようとした。勿論、上方修正された想定津波高に適合した防潮堤に嵩上げする事は当然だろうし、津波により自家発電プラントが停止するとの予測から将来の改修は不可欠だろうし、非常用炉心冷却装置を作動させた原子炉の復旧には多大な費用と時間が必要だろうが、本来の手順通りに非常用炉心冷却装置を作動させておけばメルトダウンを起こす事は無かった筈だ。水素爆発も献身的英雄的な海水注入も無かった筈だ。設計通りの施設を当初のマニュアル通りに運転していれば原発事故は起きていない。東日本大震災で想定を超える津波に見舞われ全電源喪失を経ても原子力安全神話は崩れない筈だった。だから、事の本質を見誤り東電首脳部の責任を問えなかった裁判は誤判決だった。

だが、福島第一原発事故を受けて日本の世論は全原発の停止を選択した。(停止した原発も稼働中の原発の次に危険である事には何ら変わらないのに多額の費用を掛けた原発を文鎮化する費用・発電をしないまま廃炉する費用に拘泥する世論は少数派だったのだろう。その費用は、周り回って国民や企業が払う電気代で徴収される仕組みなので、間違った安全志向ヒステリーの為に将来に渡って無駄な費用を払わされる事を国民全体が選択した訳だ)



日本人は、安全をさて置いても安心が大好きだ。安全よりも安心を優先させる傾向が強い。原発事故後に、原発事故以前の原発に対する不安全を解消する為に事故が起きた時のシナリオ、対策などの議論を封印してしまい、議論をする必要もないと原発を全部止めた。その仮初の安心を得る事に拠って、永遠に安全を失った。これは政治側、行政側に責任があることは間違いがないが、政治、行政に議論をさせない雰囲気を作り上げたのは、国民、社会の側である。(だから、我国ではマネジメントサイクルは回せない訳だ)
そして坊主憎けりゃ袈裟まで憎いでは無いが、安心を求めて非科学的な間違った進路に向かうコストには目を瞑ってしまう傾向がある。これは日本人に限らず全人類共通の傾向の様だ。

そして、今回の新型コロナ肺炎騒ぎだ。新型コロナ肺炎リスクを減らすために、手洗いうがいを徹底することは、普通の風邪やインフルエンザ予防にも効果があり社会的に明らかにプラスだ。昨年以前にもやっていれば風邪やインフルエンザで死ぬ人々が大幅に減っていただろうが、科学的に効果が期待出来ない予防の為のマスクを世界中で人々が口に当てたり、そのマスクを求めて騒動が起きたり、あるいは無関係なトイレットペーパーを買うためにエネルギーを浪費したり位なら笑い話で済むだろう。マスクは周囲への感染抑止の為に咳エチケットの一環として必要だろうが、自らの感染予防へのエビデンスは薄い。

だが、今日の世界環境を無視して水際での封じ込めを期待する世論と為政者の戦いは、一党独裁の中共ですら世論側の勝利となった。

水際での封じ込めは不可能だ。法的根拠は兎も角、危機が既知となった時点で完全に防疫鎖国を徹底しても完全な封じ込めは不可能だったと思うが、どの国の為政者も現代での完全な封じ込めは不可能と防疫担当者から説明は受けた筈だ。大多数の世論が求める封じ込めを最大限に行う方向に舵を取るしか選択肢は見出されなかった。封じ込めを行うフリをしながら感染拡大を防止すると云う選択を迫られた。全世界的に足並みを揃えた事になる。

その結果、経済活動を不必要に制限し経済的に停滞する事を許容し、その停滞のあらゆる弊害を穴埋めする為に為政者は中央銀行を通じて大量の金をばら撒いて、ウイルス騒動が治った時に誰もが世界経済や世界社会が停滞させた事に気が付くだろう。資本主義社会全体が資本主義社会特有の限界を迎えて閉塞状態にある最中で、どの国にも緊縮財政の中から、経済縮小対策としての浪費やばら撒きに使ってしまうのは、今に始まった事では無いが、余りにも愚か過ぎる。

別ブログ過去記事にも書いた通りだが、新型感染症が発生したカモと云う2020年1月半ばの段階で完全に防疫鎖国を実施していれば、我国では新型コロナウイルス肺炎騒ぎは起きなかっただろうが、今日的対応以上の経済的被害が発生していただろう。でも、国内では僅かな感染者を徹底的に隔離すれば一般国民が感染する恐怖と闘う事象には至らなかったのカモ知れない。が、21世期の世界経済の中で実効力ある防疫鎖国を永久的に続ける事は不可能だが、2〜3年後には世界では新型コロナウイルス肺炎は全く起きなくなった頃に防疫鎖国を止めたとしても防疫鎖国を止めた瞬間に、免疫を持たない日本人は誰も免疫を持たない新型コロナウイルス肺炎に一気に晒される事になり医療崩壊が発生するだろう。我が国だけの幸福を考えれば、予防ワクチンが完成し国民の多くが接種を終える迄、防疫鎖国を続ける事だろう。それが唯一の正解だと思っている人が多いのだが、今日の世界経済や世界の物作りの仕組みは、内需のみに限定しても日本単独で存続出来る仕組みにはなっていない。国内の生産ラインで国内生産されている製品の多くにも外国産の構成部品が使われていて、日本国外だけが新型コロナウイルス肺炎騒ぎで生産が止まっているダケでも、内需向けの国内生産品の製造ラインが止まる可能性もあるのだ。


安心を得る為に、人々は経済的に非合理な行動を選択すると云うのが、行動経済学の理論モデルなのだろう。だから、安心は社会への害悪であり無駄なのだ。安心には拘らず、安全の為にこそ金とエネルギーを投入すべきだと思う。

安心を得ようとするのは無駄なのだが、現実社会では、大衆は非合理的な結論や行動に至るモノだ。これは群衆心理学・群衆社会学でも明白だ。それを食い止めるには、それ以前に理性的な忠告を浸透させなければならないのだが、その為には、為政者は群衆心理学・群衆社会学のブレインを擁して適切なタイミングで送出し続けなければならないだろう。東京渋谷の雑踏を仕切ったDJポリスの様な官房長官が必要なのカモ知れないが、現実社会ではそうでは無いので、安心追求は無駄だと切り捨てる事は適わない。



安心を得ると云う大衆の望むままに社会として安心な社会を目指すとすると、リスクに対する思考を停止させリスクに対して考えなくても良い状態となる事が人々の求める「安心感」であり、逆に、常に知恵と感覚を研ぎ澄ませてリスクが近寄ってこないかを警戒し続けるのが動物的本能に因る安全対策である。模範的な為政者が上手に飼い慣らした事で、日本人に限らず全世界の人々が「安心」に捉われて「安全」を蔑ろにしている。動物的な能力を捨て去る事が「安心」と云う事だから、飼い慣らされて「安心」を求める家畜に成り下がっている訳だ。

しかし、それではリスクを察知出来ず、リスクが襲来した際に適切な対応が出来ず唯パニックに陥る事になってしまう。個人でもそうならば、「安心」へバイアスが掛かった社会的判断や政治的な意思決定の偏向が増している現在では、社会は更に大パニックになってしまうだろう。



これは多くの識者が警鐘を鳴らしている事だが、社会がリスクはリスクとして捉えず「安心」を求め続けると社会は思考停止に陥りリスクに対して鈍感になってしまう。個人としても社会としても対応策も準備せず、リスクが襲来した時には破滅する可能性が高まるのだそうだ。

新型コロナウイルス肺炎の危機は、確かに大きな危機だと思う。だが、絶望的な危機ではなく、歴史的には比較的頻繁に発生する定型的な危機に過ぎない。この定例的定型的な危機に対して、全世界で社会的にパニックになっている様では、本物の想定外の危機が襲来したとしたら、我々が今日まで支えてきた形の社会が崩壊してしまうだろう。

新型コロナウイルス肺炎危機以前に存在した危機は何ら解決してない。紛争の危機、貧困の危機、地球温暖化の危機、人口減少社会の危機、世界人口爆発の危機、世界を取り巻く危機は変わらず人類の前に立ち塞がっている。そして、それらの以前から存在した危機は解決には知恵と金と時間とエネルギーが必要なのだが、それを放っぽり出して目の前の些細な危機に対して、安全ではなく安心を得る為だけに世界中の知恵と金と時間とエネルギーを奪われるのは間違っている、と思う。

世界で市中感染が始まった今となっては、もはや封じ込めは不可能だ。感染拡大をスピードダウンさせても、開発される予防ワクチンが行き渡る前に地球人類の半分が感染する事になるだろう。医療崩壊を起こさないレベルの重症者数に抑制しつつ大衆が納得する治療方法予防方法を得る事を待つ間に、世界経済は大恐慌レベルの大ダメージを受けて(資本主義社会の再生限界危機を超えて)昨年年末レベルまでに復旧するのに要する期間はどの位なのだろうか?

もはや後戻りは効かない。人類の安心ヒステリーの性で、自分自身が生きている内に暗黒時代を体験する事になるとは・・・