2019年12月12日木曜日

我が国の科学技術の凋落の原因

日本の科学技術は世界でも高いレベルにある・・・と思っている日本人が多い様だ。自分自身は科学技術に於いて世界的権威では無い事は分かっているけど、日本には凄い世界レベルの科学的権威の日本人が多く居て世界の科学技術の先端を走っていると思っているのだ。




1980年代 『ジャパン・アズ・ナンバーワン』(原題:Japan as Number One 米国の社会学者エズラ・ヴォーゲル著)が日米でベストセラーになり、実際に著作を読んだ訳でも無いのに多くの日本人が「言葉の響き」に浮かれたのだそうだ。オイルショックを乗り越えて高度成長期の集大成として日本の科学技術も非常に高いレベルにあったと思う。そして、ニクソンショックで行き場を失った全世界の浮動資産が日本に流入しバブル経済が開始した。ジャパンマネー(実際は、行き場を失った全世界の浮動資産)が全世界を席巻し、欧米の資産を買い漁った。その有様に誰もがジャパン・アズ・ナンバーワン!と思ったのだろう。





だが現在は、最近の世界に於ける日本の大学ランキング、基幹特許の数、論文がリファレンスされている量等々の科学技術レベルの指針から見えても大きく我が国の科学技術レベルが甚だしく凋落した事は明らかだし、時価総額で比べた日本の大企業の世界順位やブランドランキングを見ても我が国の凋落は明らかだ。ここでは敢えて引用はしないが、最近の科学技術関連の、そういった指針を御自身で検索して見れば明らかだと思う。






昔々、小学校で習った事・・・資源の乏しい日本では加工貿易(原材料や半製品を他国から輸入し、それを加工してできた製品や半製品を輸出する貿易)で日本は儲けていると、今でも多くの国民は思っていて、加工貿易に有利な様に円安基調が我が国には有利だと多くの国民が思っている事と同時に、証拠として毎年日本の研究者がノーベル賞を受賞し続けている現状からも日本は科学技術先進国だと盲目的に多くの国民が信じているのだ。(ノーベル科学賞は過去の研究成果に与えられる賞であり、過去の日本には優秀な研究者や研究があったと云う証ではあっても、現在の日本の科学技術が世界レベルである証では無い)






では、何故我が国では科学技術先進国で無くなりつつあるのか? だが、それは漢字教育の衰退が原因だと・・・私は考えている。漢字発祥の中国では、古代中国の四大発明として、紙(製紙技術)・印刷術・火薬・羅針盤の発明も、スパイスや調味料、漢方薬、鍼灸術、日時計や天体観測、算盤(計算機)、ポンプや機械類、今日の人類文明の基礎の大部分は4000年以上前の中国で発明されている。何故、当時の中国は科学技術を進歩させる事が出来たのか・・・それは漢字を使っていたからだと考えている。








現代の世界では日常では殆ど使われなくなったラテン語だが、各種学会・医学・自然科学・数学・哲学・工業技術など各専門知識分野では、世界共通の学名としてラテン語名を付けて公表する伝統があり、新発見をラテン語の学術論文として発表するなど、根強く用いられ続けている。

ヨーロッパではラテン語は長い間教会においても学問の世界においても標準的な言語として用いられてきたが、ルネサンスと共に古典古代の文化の見直しが行われ、古典期の文法・語彙を模範としたラテン語を用いようとする運動が人文主義者の間で強まった。これにより中世よりもむしろ「正しい」ラテン語が教育・記述されるようになる。共通化が進んだラテン語は、近代においても広く欧州知識人の公用語として用いられた。(日本語 WiKi ラテン語より抜粋)



ラテン語は、語源毎の単語を組み合わせて新しい単語が作れる点が、各専門知識分野で使われ続けている理由だ。逆に、知らない単語でも、含まれる語源の明らかな単語に分解すれば、何と無く意味が分かる・・・意味は分からなくても何系の単語かは分かるし、語源毎の読み方さえ知っていれば知らない単語でも読める。




この性質は、全く以て漢字の性質でもある。漢字は、世界四大文明(メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明)と呼ばれる人類史黎明期の古代文明の頃に発明され、現在でも唯一使われ続けている文字である。(他の、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明で使われていた文字は、現在では使われていない)






ラテン文字に代表されるアルファベットは音を表記する表音文字だが、漢字は音と同時に意味を表す表音表意文字だ。更に、漢字の多くは複数の漢字を集めて、音と意味を足しあわせる事で新たな意味を持たせる事が出来る・・・恐らく人類史上最強の文字である。





英語を覚える際に、英単語の多くはラテン語が起源で語源を知ると覚えやすいと習った世代だ。例えば、"survive" と云う単語は、ラテン語の “super” (上・超えて)が起源の接頭辞 "sur" とラテン語の "vive"(生きる)を合わせて、「超えて生きる」=「生き残る」となる。





接頭辞 "sur" を覚えさせすれば、"surprise" も "sur"(上・超えて) + "prise"(つかまえる)=上からつかまえる=驚かす、"surface" も "sur"(上・超えて) + "face"(面)で「面の上」=「表面」、"surcharge" も "sur"(上・超えて) + "Charge"(積む・詰める)で「超えて積む」=「積み過ぎ」=「超過料金」、"surpass"も "sur"(上・超えて) + "pass"(通過する)で「超えて通過する」=「○○を超える」「超越した」「優れた」となる。






漢字も、「上」①うえ。うわ。かみ。うえのほう。高いほう。 ②年齢・地位・身分などが高い。 ③程度が高い。よい。すぐれる。 ④順序が先のほう。まえ。 ⑤あがる。あげる。のぼる。高いほうに動く。



「下」①した。しも。うしろ。場所・身分・程度が低い。 ②もと。ほとり。高いもののそば。「 ③くだる。さがる。おろす。低いほうに動く。また、動かす。



「山」①やま。高く盛り上がった地形。 ②やまのように盛り上がること。 ③鉱物を産出するやま。 ④寺院の称号につける語。



と知っていれば、部首に「上」が含まれる漢字は、読みは分からなくても「上」に関する意味だと想像がつくだろう。



「卡」は読み方は分からなくても、上と下に挟まれている意味だと分るだろう。それに峠は、山で上と下に挟まれている=とうげだと分るだろう。




ラテン語で"aqua"が使われていれば水系・液体系の単語だと分るだろうし、漢字でも「氵(さんずい・水部)」を使っている漢字は水系・液体系だと想像がつくだろう。




こうしたルールに基づいて整備されているので、
ラテン語は造語が容易に可能でラテン語の学名は体系化が容易いと云われるのだが、だが4000年以上前に発明された漢字もラテン語以上のパワーを秘めている。漢字には、形で抽象化や概念化を伝える働きもあり、部首の由来や語源からきちんとした漢字学習を行えば、漢字で行う教育はラテン語で行う以上の学習効果があると思うのだ。




昨今、理系推し、科学技術推し、そして国際化推しの傾向が強いが、日本語での教育を行なっている我が国では、今日まで人類が蓄積してきた「知識や知恵」は国語を通じて獲得する事になる。そして、それが知的活動の基盤となり国語を通じて、あらゆる知識の獲得と能力の形成が実現されるのだ。同時に、国語は各人の論理的思考力の基盤でもあり深く思考する為には国語力(語彙力)が不可欠で、各人の思考は国語に拠って行われている事から、論理を身につける為には国語の運用能力が重要な役割を果たしている。そして、更に長期的な展望に立っての大局的な判断は、理性や論理だけではなく深い教養が必要とされ、教養の体得には日頃から活字文化に親しんでいる事が重要だとされる。




又、我が国の素晴らしい先人達が築き上げてきた日本語文化に拠って、美しい日本語表現やリズム、人々の深い感情、自然への繊細な感受性から美的感性や豊かな情緒を培い、勇気・誠実・礼節・愛・倫理観・正義・信義・郷土愛・祖国愛等の情緒の表形も文学等を通して通して身に付けることが出来る事から、国語は感情や情緒の基盤を為すとも言えるだろう。




そして、更に、国語の最も基本的な役割である意思や感情などを伝え合いコミュニケーションを成立させる能力に拠って、国語は個人が社会の中で生きていく上に欠くことの出来ない重要な役割を担っているのだ。 コミュニケーションの基本は、相手の人格や考え方を尊重する態度と言葉による伝え合いであり、国語の運用能力がその根幹となっている。






又、言葉によって多様な人間関係を構築することのできる「人間関係形成能力」や目的と場に応じて「効果的に発表・提示する能力」は、現在の社会生活の中で強く求められている能力の一つであるが、これらの根幹にあるのもコミュニケーション能力であり、国語の力である。




こうした意味合いで国語力を他教科より重要視した頃の教育と、数学・科学に偏重した今日の教育下では、大きく異なっているのだと思う。今日の国語教育、特に漢字教育の手抜きが我が国から他国に勝る優位性を削ぎ落としているのだと思っている。





では、4000年以上前から漢字を使っていた中国は、どうだろうか?




我が国は、漢や唐の国から多大な先進的な知識や技術を教わって文明を学んだ。例えば、論語から礼の大切さを教わり教えに従い中国へも恩返しに努めてきた。現在、中国で使われている中国語の半分以上は、我々日本人が作った物を逆輸入しているのだ。例えば、現在の中国の正式な国名も和製漢語と云われている。



幕末以前[編集]

日本語では古来、中国から大量の漢語、すなわち中国語の単語を借用してきた。漢語の造語法に習熟するにしたがい、独自の和製漢語を造るようになった。その造語法をみると、まず漢字で表記した大和言葉を音読したものがある。例えば、「火のこと」を「火事」、「おほね」を「大根」、「腹を立てる」を「立腹」とする類である。また、中国語にない日本特有の概念や制度、物を表すために漢語の造語法を用いたものがある。「介錯」「芸者」などがその例である。
(日本語Wiki  和製漢語から引用)


かお、め、はな、みみ、て、あし、あるく、はしる、たべる、みず、たべもの、そら、うみ、かわ等々の古代からある最も原始的な言葉(単語)は、どこの国にも外国人から教わらなくても元々存在する。その様な単語は2000語程度で、人類の社会や科学技術が進歩する事に拠って、新たな概念に対する言葉や、新たに発明された物の名前等、次々に新しい言葉を生み出していかなければならなくなる。そして、我々現代人は、数万の言葉を知らなければならなくなった。

幕末以後[編集]

19世紀後半には、西洋の文物・概念を漢語によって翻訳した和製漢語が多く作られた。これらを「新漢語」と呼ぶことがある。ただし、新漢語の割合は漢語全体から見れば必ずしも多いわけではない。第二次世界大戦後の調査によれば、新聞雑誌の二字漢語の上位1000語のうち、902語は幕末までに存在したものである[4]
新漢語は2種に分けられる。1つは、「科学」、「哲学」、「郵便」、「野球」など、新しく漢字を組み合わせて作った、文字通り新しい語である。もう1つは、「自由」、「観念」、「福祉」、「革命」など、古くからある漢語に新しい意味を与えて転用・再生した語である。後者を狭義の和製漢語には含まないこともある。近代以降は、「 - 性」、「 - 制」、「 - 的」、「 - 法」、「 - 力」や「超 - 」などの接辞による造語も盛んになり、今日でもなお新しい語を生産している。
和製漢語は特に近代以降、中国に逆輸出されたものも少なくない。中国が近代化を遂げる過程で、特に日清日露戦争前後に、中国人留学生によって日本語の書物が多く翻訳されたことが大きいともされる。中国語になった和製漢語の例として、「意識」、「右翼」、「運動」、「階級」、「共産主義」、「共和」、「左翼」、「失恋」、「進化」、「接吻」、「唯物論」など種々の語がある。中国でも自ら西洋語の翻訳を試み、華製新漢語中国語版なるものを作り出していた。しばしば和製漢語と競合するようになることもあった[5]
「中華人民共和国」の「人民」「共和国」も和製漢語であり、国名だけでなく中国の体制に必要不可欠な概念までも和製漢語には含まれている[6]。また、同じく漢字文化圏である台湾大韓民国ベトナムでもこうした和製漢語を自国語漢字音で取り入れている。これには日本では和製漢語とは見なされない漢字書きの訓読み和語(割引など)も含まれている。
(日本語Wiki  和製漢語から引用)




現在の日本で使われている高度な概念の大半は江戸時代末期から明治初頭にかけて欧米から一気に流れ込んできた概念であり、それを日本人はその高度な概念に対応する漢字表現を「漢語に於ける造語法のルールに忠実に従い」創出する努力をして、数万の和製漢語を作りました。中国人は為政者が変わる度に、過去の歴史や技術体系を捨て去るので「漢語に於ける造語法のルールに忠実に従い」新しい概念に対する新造語を作らなかったので、中国製の華製新漢語の多くは廃れてしまったのだ。結局、そういった概念は日本から輸入し、なんと、現在の中国語の半分以上が和製漢語で出来ている。こうして、我が国日本は、現在の中国の知的土台を作り上げ提供する事で、中国から賜った多大な恩に報いる恩返しを果たし中国への感謝を表している訳だ。





こうして、ラテン語が口語言語から学術言語として昇華した様に、「漢語に於ける造語法のルールに忠実に従い」作られた和製漢語が使われた日本語は口語言語と学術言語を兼ねる世界最高の言語となったのだ。その国語の根幹である漢字教育をお座なりにして、理系教育に偏重する今日の日本の学習傾向の延長線上には我が国科学技術の凋落が明らかなのだが、それが偉い人には解らないのだろうか?又は、行政府としての日本政府は、日本国民を白痴化した方が為政者には都合が良いと云う事だろうか?





4000年の歴史を持つ漢字を、簡体字に切り替えようと躍起になったのは中国共産党が政権を握ってからだ。私と同世代迄の高齢な中国人は、古代の人が壁や石碑などに彫った文字や歴史的建造物に残された対句詩等を理解出来るそうだが、最近の中国人の若者は理解することが出来ず、古文は疎か、香港や台湾の現代小説を読むのも一苦労なのだそうだ。 古文を読むことは、自国の伝統や文化を理解するのに非常に重要である。多くの図書館には本来の正体字である【繁体字】で書かれた古文が多数存在するが、それらを検索するには簡体字は使えない。簡体字の利用に依って、【繁体字】を利用する台湾との文化的交流にも齟齬が生じ、大陸の若者が香港や台湾のメディア情報を読むのに苦労する。中国語、そしてそれを書き表す中国漢字は、長い歴史を有する中華文化の体現である。中国共産党は、樹立した新政権を強固にするには、その悠久の歴史を有する文字を解体して、新しい文字を利用すれば効果があると判断したのだろう。




ゆとり教育は日本国民総白痴化を目指すモノではなく、
詰め込み教育」と言われる知識量偏重型の教育方針を是正し、思考力を鍛える学習に重きを置いた経験重視型の教育方針をもって、学習時間と内容を減らしてゆとりある学校を目指した教育(日本語Wiki ゆとり教育から抜粋)なのだそうだ。だが、ゆとり教育の問題を解消しようとした脱ゆとり教育では大きく割愛された漢字学習は戻さず理系科目と英語教育に大きく学習主軸を置いたモノだ。





ゆとり教育世代の子供を持つ親として、ゆとり教育は間違いだったと明確に認識出来るが、上記の事より脱ゆとり教育にも我が国行政府が標榜する効果は期待出来ないと考えるのだ。土台となる基礎的知識の少ない小中学生に対して、「自由に創造しなさい」と言っても、多くの児童生徒には困惑する場合が多く、結果も成熟度の無い未熟なものにしか成り得ない。日本が世界に誇れる学習要領とは守破離だと思う。

詳細[編集]

千利休
守破離に基づいた平成中村座
もとは千利休の訓をまとめた『利休道歌』にある、「規矩作法 り尽くしてるともるるとても本を忘るな」を引用したものとされている。
修業に際して、まずは師匠から教わったを徹底的に「守る」ところから修業が始まる。師匠の教えに従って修業・鍛錬を積みその型を身につけた者は、師匠の型はもちろん他流派の型なども含めそれらと自分とを照らし合わせて研究することにより、自分に合ったより良いと思われる型を模索し試すことで既存の型を「破る」ことができるようになる。さらに鍛錬・修業を重ね、かつて教わった師匠の型と自分自身で見出した型の双方に精通しその上に立脚した個人は、自分自身とそのについてよく理解しているため既存の型に囚われることなく、言わば型から「離れ」て自在となることができる。このようにして新たな流派が生まれるのである。
「本を忘るな」とあるとおり、教えを破り離れたとしても根源の精神を見失ってはならないということが重要であり、基本の型を会得しないままにいきなり個性や独創性を求めるのはいわゆる「形無し」である。無着成恭は「型がある人間が型を破ると『型破り』、型がない人間が型を破ったら『形無し』」と語っており、これは十八代目中村勘三郎の座右の銘「型があるから型破り、型が無ければ形無し」としても知られる。
個人のスキルを表すため、茶道、武道、芸術等、あるいはスポーツや仕事等々において様々な成長のプロセスに用いることが出来、以下のように当てはめることができる。
  • 守:支援のもとに作業を遂行できる(半人前)。 ~ 自律的に作業を遂行できる(1人前)。
  • 破:作業を分析し改善・改良できる(1.5人前)。
  • 離:新たな知識(技術)を開発できる(創造者)。
(日本語Wiki 守破離 より抜粋)


特別な能力を持たない人が、十分な基礎知識を学ばぬままで新たな発見や発明は疎か、十分基礎知識を学んだ先輩にも遠く及ば無い事は改めて申し上げる必要は無いだろう。








ピアノの基礎訓練を経ずに名演奏が出来たり名曲が作曲できたりするのは、その人の天才的な才能に因るモノで、学校教育が天才を生む事の出来ない事は歴史が証明している筈だ。








そして、基礎学習とは詰め込み以外の方法で習熟させる事は難しい。せめて義務教育である小学校・中学校の間は旧学習要領で詰め込んで、高校・大学はゆとり教育で創造性を育ててみては如何だろうか?

2019年6月24日月曜日

高齢者による暴走交通事故を止めるには



電気式パーキングブレーキは、助手席や後部座席にいる同乗者が使える非常ブレーキだと云う事が判ったのだが、ASV(先進安全自動車)に、もう1項目デッドマン装置を組み込むと現時点での安全対策は一応完了するのではないかと思うのだ。


デッドマン装置とは『機械の安全装置の一つで、人間の操作者が死亡・意識不明などの事態に陥ったときや、不用意に運転位置を離れた際に自動的に動作(あるいは停止)して事故を防止する装置(Wikipedia 日本版より抜粋)』だ。



デッドマン装置には搭載する乗り物に応じて様々な種類があるので、素人の私が自動車に搭載するのはコレが良いと決めつける事は出来ないが、例えば、私の足車には車線維持支援機能(LKA: レーンキープアシスト機能)が装備されていて、道路両脇の車線境界線(中央線や車道外側線等の車線を区切る線)が確認出来るカーブなら、自動で車線の中央をトレースして走ってくれる機能であり、前方に低速車や停止車両が居れば速度を合わせ追従したり適当な車間で停止する機能もある。但し、国土交通省の定める車線維持支援装置の技術指針である「1. ドライバーが機能をオン/オフできるスイッチを備えていなければならない。また、エンジンをかけた直後はオフでなければならない。」が有る為に、意図的に作動させない限り車線維持支援機能は作動しないが、車線境界線を超えない様な軽い操舵は自動で行うみたいだ(気持ち悪いと感じる事も)。この車線維持支援機能には10秒以上ハンドルから手を離すと警告音と共に作動を停止する仕様になっていて、車線維持支援機能任せで自動運転が出来ない様に出来ているのだが、ハンドルから手を離すと制御を止める事から、運転操作を止めるとデッドマンモードに入る安全装置を装着する素地は出来ているのだろう。列車に装備されているEB装置(緊急列車停止装置)は『5km/h以上で走行中の列車の運転士が、マスコン・ブレーキ・警笛(機関車の場合はこれらに加え、「砂撒き」操作も入る)などの機器のいずれかを指定時間(1分に設定されている場合が多い)以上操作しないと警報ブザーが鳴動するとともに警報ランプが点灯し、5秒以内にこれらの機器を操作するか、リセットスイッチ(バーまたはボタン式)を操作しない場合、即座に非常ブレーキがかかる。(Wikipedia 日本版より抜粋)』と云う代物だが、レールの上を走る鉄道とは異なり歩行者自転車も含め多くの通行者が入り混じっている公道上では1分間も放置する余裕は無いだろうが、10秒(それでも時速40Kmでは110m進んでしまうが)運転操作をしないとニュートラルになりハザードランプを灯して車線に従って安全停止する事も技術的には可能だろうが、ボーッと追従して走っている人間が運転する車なら気が付かずに追突してしまうカモ知れないのだろう。

だから、安全対策は一筋縄ではいかずASV(先進安全自動車)にドライバー異常時対応システムを搭載する事に至っていないのだろうと思う。レベル3自動運転もほぼ実用段階に至っている。レベル3とは高速道路や自動車専用道路に限られる自動運転だが、それが達成出来ているなら、一般道に於いて後続車に非常停止をアピールしながら緩やかに減速を続け路側に寄せて停止する事も可能だろう。

如何だろうか?

2019年6月20日木曜日

もし貴方が助手席に乗っている車が暴走を始めたら?

福岡高齢男性暴走事故から1週間 ブレーキ踏み間違えか、捜査長期化の様相

 産経新聞News Web

2019年6月5日水曜日

高齢者による交通事故多発と免許返納強制への時流

「高齢者ドライバー問題」とは、高齢者ドライバーによる事故が多発している事と、事故を起こす恐れのある高齢ドライバーの免許返納を加速させようと云う時流と、免許返納を果たした高齢者の移動インフラ整備の問題等々の事である。

今回の本記事は、高齢ドライバーの免許返納を強制しようと云う時流をテーマとしたい。と、云うか、私は安易な免許返納を強制する時流に反対したい。

高齢者ドライバーによる悲惨な交通事故報道が続いている。だが、人身事故・物損事故を問わず事故率では若年層(10代・20代)ドライバーの方が多いと云う統計的事実を先ずは御披露したい。

警視庁の「平成27年における交通事故の発生状況」(平成28年3月)によると、年齢階層別の免許保有者(原付以上)の10万人当たりの年間の交通事故発生件数は、16~19歳がもっとも多く1,888件、以後、年齢を重ねるごとに件数は下降し、35歳以上から60代までは500件台という低い位置での推移となる。つまりこの年代は事故を起こすリスクは低い。しかし70代は662件と再び上昇し、85歳以上では811件になる(いずれも平成27年中)。10代や20代よりは低い件数とはいえ、70代を迎えると事故を起こすリスクが高くなるのは間違いなさそうだ。

若年層は今後のドライバー人生の中で運転が上手くなり統計的に事故率が減少いく事は証明されていて、運転適性が低下した事に拠って事故を起こした高齢ドライバーは(回復可能な疾患に拠る場合以外は)不可逆に運転適性が低下の一途を辿るだろう事は容易に想像出来る。

運転適性が低下し公道での運転が行えない高齢ドライバーに、絶対に運転をして欲しく無いと考えるのは私も当然の事と思っている。だが、運転適性が公道での運転が可能なレベルにある高齢ドライバーも定年制とかの名の下に免許返納を強制されるのは如何なモノかと思うのだ。

自動運転車の普及を待っていれば、悲惨な高齢ドライバーの事故が増え続けるだろう。そもそも専用高架の上を走る自動運転列車なら兎も角、だが、一律の運転免許定年制では、充分に安全運転を継続できる運転適性を持ち、且つ、今後も運転を継続したいと思っている高齢者から移動手段を奪う事になる。

誰でも想起出来る上記考察から、TVの情報番組コメンテーターからは、高齢ドライバーの免許更新の期間短縮を打開策として提案されていた。だが、それでは高齢ドライバーによる事故を止める事は出来ないと思うのだ。

運転適性が徐々に失われていって段々安全運転が出来なくなるのなら、免許更新期間の短縮化は数学的に一定の効果を示すだろうと思うが、高齢ドライバーによる事故を止める事は適わないと思う。

これは、全く私の想像の産物なのだが、ある朝目が覚めたら運転適性が低下していて公道での運転が出来ない高齢者になっている・・・と云うのが事故を惹起した高齢者の現実なのでは無いだろうか?

ある朝目が覚めると、もう公道での安全運転を行う運転適性を有していない高齢者になっていて、自らを騙し騙し運転している内に家族から免許返納を強制されるか、高齢者惹起交通事故を起こしてしまう。

自動運転車の開発よりも、運転免許一律定年制の導入よりも、公道での安全運転を行う運転適性を有していないドライバーに運転させない装置・システムの開発が必要なのでは無いだろうか?公道を走る総ての自動車が自動運転車になれば交通事故は大幅に減少する(だが、交通事故は無くならない)だろうが、人間が運転する自動車と混在して自動運転車を走らせる事は我が国では実現しないと思うのだ。実験施設や高速道路の一定区間に限定された自動運転可能ゾーンだけでは、どうせ自動運転車技術の大幅な立ち遅れは否めない。それよりも、人に優しい技術を売り物にしている高齢化率1位の技術立国たる我が国は、運転適性を失った人には運転させない装置・システムを開発すべきでは無いだろうか?

その技術が普及するまでは、TVで識者の方が言われていた方法「運転免許定年制を導入して一律で運転免許更新を止めるが、その中で運転を継続したい意志を持つ高齢者には厳密な運転適性検査(技能・法規)を実施し、短期間の運転免許を継続する」に踏み切るしか無いのだろう。自動車学校の卒業検定レベルの運転適性検査なら、現在の免許更新よりもハードルは高くなり免許更新出来ない高齢者は増えるだろう。だが、自らでの運転継続に情熱を抱き続けられれば、その運転適性検査に合格する様に日々努力し続ける事を生き甲斐にしても良いのでは無いだろうか?


私は、車の運転が好きなので安全運転が継続できる内は自らで運転したいと思っているのだが、このままの時流では老後は運転免許を早くに取り上げられそうな雰囲気に思えてしまう。運転適性があるのに免許を奪われるのは嫌だ。しかし、ある朝目が覚めて公道での運転が適わないレベルに運転適性が低下していたら、私が運転する事を絶対に止めて貰いたいとも思うのだ。


自宅周辺の田舎道では、交通法規を全く守らない危険な運転をする高齢ドライバーが多くいて何度も危ない目に遭っている。私もあんな運転をする高齢者になるのなら、免許を継続して貰わない方が良いと思うのだ。トラックやバス・タクシーのドライバー不足に拍車をかけて、日本の自動車産業の衰退にも拍車をかけてしまいそうだが、若年層も含めて技能・法規の適性検査を受けて合格者のみに運転免許を更新する制度に切り替えていかないと一掃の交通安全は担保されないのでは無いだろうか?


2019年5月29日水曜日

無差別殺傷事件の再発防止の為には

「ぶっ殺してやる」と叫びスクールバスの小学生を狙う 逮捕された男は自ら首を刺し意識不明

5/28(火) 10:27配信
AbemaTIMES

往々にして、こうした無差別殺傷事件の犯人が後に表明するのが「殺す相手は誰でも良かった」との主張だが、実際には無差別ではなく殺す相手は「犯人より弱く労せず殺されてくれる相手」だから、女性や子供や無防備な人を狙う凶行が主となる。又、今回は何の前触れもなく唐突に凶行が始まり誰かが止めようとする前に自殺してしまった。

この犯人は自らの口を封じた事で、犯人本人なりの動機の究明は永久に頓挫してしまったのだろうが、無差別殺傷犯の自供やプロファイリングから、次のような事が云われている。

社会的・心理的に孤立し長期間の欲求不満状態に置かれた他責的な性格(物事が望み通りに運ばない時に、それを自分以外のもの、状況や他の人などのせいにしようとする傾向のこと)の人が、破滅的な喪失(本人が「もうダメだ。自分の人生はもう終わりだ」と絶望するような出来事)が起きた後に、社会への復讐として無差別大量殺傷事件を起こしたとされている。

だとすると、こう云った不幸な無差別大量殺傷事件を再び起こさない為には、安っぽい言葉になるが、「日本に生きる全ての人が希望を持てる社会にすべきだ」となるのだろうが、そんなお題目は唱えてみても仕方がない実現不可能な事となる。何故なら現代社会には「自分は不幸だ。(将来に)希望が持てない」と個々人が思う事を止める流れは存在しない。

それは過去記事でも書いたいじめの定義の変遷で、現在の新定義として「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とされ、起こった場所は学校の内外を問わない、個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする、とされた。いじめを受けた側にも何某かの責任があるとする自責的な考え方は無く、児童生徒自身がいじめを受けたと思えば、いじめが起きたとされ、その責任は一方的に他責的にいじめた側が悪いとなった。自責的な考え方を持ち込むと、いじめに歯止めをかけられないと政治が急いだ結果だと思う。

この流れが、学校を卒業した後の社会や職場にも持ち込まれる事となった。

今日の日本社会は白黒ハッキリしたがる傾向になっていて、イエスかノーかの2択式思考が主流となっている。又、正義や悪に関してもキッパリ2択から選ぶ傾向にある。本来、いじめを自責的に考えるか他責的に考えるかを2択で決めるべきでは無い。自分にも何某かの責任を自覚し、その上で、いじめをする側の責任を問うべきと云う考え方は面倒臭く難しいし、そのジャッジメントを他者に委ねた際に絶対に納得のいく責任配分にはならないだろうからだ。

他責的思考には良い面もあるだろう。いじめを受け大きなストレスを抱えている時などレジリエンスになり得るだろう。だが、乗り越える事が出来たら、自責的な思考で省みる事も再発防止には不可欠だと思うのだ。他責的思考に頼ると辛い問題は、全て解決不能と思考停止してしまう。だが、自責的思考に囚われると、反省ではなく後悔と云う闇を開く危険性も孕んでいる。そして自責的思考でも行き着く先は、自分には能力が無い=思考停止してしまうだろう。

自責的思考、他責的思考のどちらかで対処するのではなく、個々1つ1つの解決が難しい問題毎に自らが省みて自分自身が変わる必要がある部分と、他に変わってもらう様に働き掛ける方法を試行錯誤する部分に分けて考える事が出来る人・・・自責でも他責でもなく、しっかりと「自分自身」を持ちながら、客観的に物事を捉え行動出来るタイプの人・・・日々幸せに安心して生きられるよう自分自身の問題を積極的に解決し、過小でも過大でもない「ありのままの自分」を認め評価出来る人 ・・・そう云ったEQ(心の知能指数)が高い人と成長する様に未来を担う子供達を教育する必要があるのでは無いだろうか?

そして、我々大人もEI(心の知能)を高めるプログラムを何らかの形(マスメディアやインターネット等を通じて)再教育を受ける様に国家全体として取り組むべきでは無いだろうか?

川崎で起きた無差別殺傷事件の様な事件の再発を防止する手段として、様々な方法論が識者から出されている。人の感情を分析出来るAI(人工知能)搭載の監視カメラを各所に設置すると云う映画『マイノリティ・リポート』の様なアイディアから、前半で引用した「日本に生きる全ての人が希望を持てる社会にすべきだ」と云う夢物語まで様々な再発防止案が表明されている。AI搭載の監視カメラ網は迅速に対処出来る『マイノリティ・リポート』の様な予防的治安維持機能を遂行する犯罪予防局の実行部隊が多数必要だろうし、実際の犯人予定者の数倍数十倍の無垢な人々が検挙される事になるだろうから社会的コンセンサスは得られないだろうし、「日本に生きる全ての人が希望を持てる社会にすべきだ」は申し訳ないが不可能だと思う。私が考えた再発防止策では、前述の通り日本社会全体がEI(心の知能)を高めるべきとさせて頂いた。

2019年5月26日日曜日

医療費削減、予防医療は役立つか?