2019年6月20日木曜日

もし貴方が助手席に乗っている車が暴走を始めたら?

福岡高齢男性暴走事故から1週間 ブレーキ踏み間違えか、捜査長期化の様相

 産経新聞News Web

2019年6月5日水曜日

高齢者による交通事故多発と免許返納強制への時流

「高齢者ドライバー問題」とは、高齢者ドライバーによる事故が多発している事と、事故を起こす恐れのある高齢ドライバーの免許返納を加速させようと云う時流と、免許返納を果たした高齢者の移動インフラ整備の問題等々の事である。

今回の本記事は、高齢ドライバーの免許返納を強制しようと云う時流をテーマとしたい。と、云うか、私は安易な免許返納を強制する時流に反対したい。

高齢者ドライバーによる悲惨な交通事故報道が続いている。だが、人身事故・物損事故を問わず事故率では若年層(10代・20代)ドライバーの方が多いと云う統計的事実を先ずは御披露したい。

警視庁の「平成27年における交通事故の発生状況」(平成28年3月)によると、年齢階層別の免許保有者(原付以上)の10万人当たりの年間の交通事故発生件数は、16~19歳がもっとも多く1,888件、以後、年齢を重ねるごとに件数は下降し、35歳以上から60代までは500件台という低い位置での推移となる。つまりこの年代は事故を起こすリスクは低い。しかし70代は662件と再び上昇し、85歳以上では811件になる(いずれも平成27年中)。10代や20代よりは低い件数とはいえ、70代を迎えると事故を起こすリスクが高くなるのは間違いなさそうだ。

若年層は今後のドライバー人生の中で運転が上手くなり統計的に事故率が減少いく事は証明されていて、運転適性が低下した事に拠って事故を起こした高齢ドライバーは(回復可能な疾患に拠る場合以外は)不可逆に運転適性が低下の一途を辿るだろう事は容易に想像出来る。

運転適性が低下し公道での運転が行えない高齢ドライバーに、絶対に運転をして欲しく無いと考えるのは私も当然の事と思っている。だが、運転適性が公道での運転が可能なレベルにある高齢ドライバーも定年制とかの名の下に免許返納を強制されるのは如何なモノかと思うのだ。

自動運転車の普及を待っていれば、悲惨な高齢ドライバーの事故が増え続けるだろう。そもそも専用高架の上を走る自動運転列車なら兎も角、だが、一律の運転免許定年制では、充分に安全運転を継続できる運転適性を持ち、且つ、今後も運転を継続したいと思っている高齢者から移動手段を奪う事になる。

誰でも想起出来る上記考察から、TVの情報番組コメンテーターからは、高齢ドライバーの免許更新の期間短縮を打開策として提案されていた。だが、それでは高齢ドライバーによる事故を止める事は出来ないと思うのだ。

運転適性が徐々に失われていって段々安全運転が出来なくなるのなら、免許更新期間の短縮化は数学的に一定の効果を示すだろうと思うが、高齢ドライバーによる事故を止める事は適わないと思う。

これは、全く私の想像の産物なのだが、ある朝目が覚めたら運転適性が低下していて公道での運転が出来ない高齢者になっている・・・と云うのが事故を惹起した高齢者の現実なのでは無いだろうか?

ある朝目が覚めると、もう公道での安全運転を行う運転適性を有していない高齢者になっていて、自らを騙し騙し運転している内に家族から免許返納を強制されるか、高齢者惹起交通事故を起こしてしまう。

自動運転車の開発よりも、運転免許一律定年制の導入よりも、公道での安全運転を行う運転適性を有していないドライバーに運転させない装置・システムの開発が必要なのでは無いだろうか?公道を走る総ての自動車が自動運転車になれば交通事故は大幅に減少する(だが、交通事故は無くならない)だろうが、人間が運転する自動車と混在して自動運転車を走らせる事は我が国では実現しないと思うのだ。実験施設や高速道路の一定区間に限定された自動運転可能ゾーンだけでは、どうせ自動運転車技術の大幅な立ち遅れは否めない。それよりも、人に優しい技術を売り物にしている高齢化率1位の技術立国たる我が国は、運転適性を失った人には運転させない装置・システムを開発すべきでは無いだろうか?

その技術が普及するまでは、TVで識者の方が言われていた方法「運転免許定年制を導入して一律で運転免許更新を止めるが、その中で運転を継続したい意志を持つ高齢者には厳密な運転適性検査(技能・法規)を実施し、短期間の運転免許を継続する」に踏み切るしか無いのだろう。自動車学校の卒業検定レベルの運転適性検査なら、現在の免許更新よりもハードルは高くなり免許更新出来ない高齢者は増えるだろう。だが、自らでの運転継続に情熱を抱き続けられれば、その運転適性検査に合格する様に日々努力し続ける事を生き甲斐にしても良いのでは無いだろうか?


私は、車の運転が好きなので安全運転が継続できる内は自らで運転したいと思っているのだが、このままの時流では老後は運転免許を早くに取り上げられそうな雰囲気に思えてしまう。運転適性があるのに免許を奪われるのは嫌だ。しかし、ある朝目が覚めて公道での運転が適わないレベルに運転適性が低下していたら、私が運転する事を絶対に止めて貰いたいとも思うのだ。


自宅周辺の田舎道では、交通法規を全く守らない危険な運転をする高齢ドライバーが多くいて何度も危ない目に遭っている。私もあんな運転をする高齢者になるのなら、免許を継続して貰わない方が良いと思うのだ。トラックやバス・タクシーのドライバー不足に拍車をかけて、日本の自動車産業の衰退にも拍車をかけてしまいそうだが、若年層も含めて技能・法規の適性検査を受けて合格者のみに運転免許を更新する制度に切り替えていかないと一掃の交通安全は担保されないのでは無いだろうか?


2019年5月29日水曜日

無差別殺傷事件の再発防止の為には

「ぶっ殺してやる」と叫びスクールバスの小学生を狙う 逮捕された男は自ら首を刺し意識不明

5/28(火) 10:27配信
AbemaTIMES

往々にして、こうした無差別殺傷事件の犯人が後に表明するのが「殺す相手は誰でも良かった」との主張だが、実際には無差別ではなく殺す相手は「犯人より弱く労せず殺されてくれる相手」だから、女性や子供や無防備な人を狙う凶行が主となる。又、今回は何の前触れもなく唐突に凶行が始まり誰かが止めようとする前に自殺してしまった。

この犯人は自らの口を封じた事で、犯人本人なりの動機の究明は永久に頓挫してしまったのだろうが、無差別殺傷犯の自供やプロファイリングから、次のような事が云われている。

社会的・心理的に孤立し長期間の欲求不満状態に置かれた他責的な性格(物事が望み通りに運ばない時に、それを自分以外のもの、状況や他の人などのせいにしようとする傾向のこと)の人が、破滅的な喪失(本人が「もうダメだ。自分の人生はもう終わりだ」と絶望するような出来事)が起きた後に、社会への復讐として無差別大量殺傷事件を起こしたとされている。

だとすると、こう云った不幸な無差別大量殺傷事件を再び起こさない為には、安っぽい言葉になるが、「日本に生きる全ての人が希望を持てる社会にすべきだ」となるのだろうが、そんなお題目は唱えてみても仕方がない実現不可能な事となる。何故なら現代社会には「自分は不幸だ。(将来に)希望が持てない」と個々人が思う事を止める流れは存在しない。

それは過去記事でも書いたいじめの定義の変遷で、現在の新定義として「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」とされ、起こった場所は学校の内外を問わない、個々の行為が『いじめ』に当たるか否かの判断は表面的・形式的に行うことなく、いじめられた児童生徒の立場に立って行うものとする、とされた。いじめを受けた側にも何某かの責任があるとする自責的な考え方は無く、児童生徒自身がいじめを受けたと思えば、いじめが起きたとされ、その責任は一方的に他責的にいじめた側が悪いとなった。自責的な考え方を持ち込むと、いじめに歯止めをかけられないと政治が急いだ結果だと思う。

この流れが、学校を卒業した後の社会や職場にも持ち込まれる事となった。

今日の日本社会は白黒ハッキリしたがる傾向になっていて、イエスかノーかの2択式思考が主流となっている。又、正義や悪に関してもキッパリ2択から選ぶ傾向にある。本来、いじめを自責的に考えるか他責的に考えるかを2択で決めるべきでは無い。自分にも何某かの責任を自覚し、その上で、いじめをする側の責任を問うべきと云う考え方は面倒臭く難しいし、そのジャッジメントを他者に委ねた際に絶対に納得のいく責任配分にはならないだろうからだ。

他責的思考には良い面もあるだろう。いじめを受け大きなストレスを抱えている時などレジリエンスになり得るだろう。だが、乗り越える事が出来たら、自責的な思考で省みる事も再発防止には不可欠だと思うのだ。他責的思考に頼ると辛い問題は、全て解決不能と思考停止してしまう。だが、自責的思考に囚われると、反省ではなく後悔と云う闇を開く危険性も孕んでいる。そして自責的思考でも行き着く先は、自分には能力が無い=思考停止してしまうだろう。

自責的思考、他責的思考のどちらかで対処するのではなく、個々1つ1つの解決が難しい問題毎に自らが省みて自分自身が変わる必要がある部分と、他に変わってもらう様に働き掛ける方法を試行錯誤する部分に分けて考える事が出来る人・・・自責でも他責でもなく、しっかりと「自分自身」を持ちながら、客観的に物事を捉え行動出来るタイプの人・・・日々幸せに安心して生きられるよう自分自身の問題を積極的に解決し、過小でも過大でもない「ありのままの自分」を認め評価出来る人 ・・・そう云ったEQ(心の知能指数)が高い人と成長する様に未来を担う子供達を教育する必要があるのでは無いだろうか?

そして、我々大人もEI(心の知能)を高めるプログラムを何らかの形(マスメディアやインターネット等を通じて)再教育を受ける様に国家全体として取り組むべきでは無いだろうか?

川崎で起きた無差別殺傷事件の様な事件の再発を防止する手段として、様々な方法論が識者から出されている。人の感情を分析出来るAI(人工知能)搭載の監視カメラを各所に設置すると云う映画『マイノリティ・リポート』の様なアイディアから、前半で引用した「日本に生きる全ての人が希望を持てる社会にすべきだ」と云う夢物語まで様々な再発防止案が表明されている。AI搭載の監視カメラ網は迅速に対処出来る『マイノリティ・リポート』の様な予防的治安維持機能を遂行する犯罪予防局の実行部隊が多数必要だろうし、実際の犯人予定者の数倍数十倍の無垢な人々が検挙される事になるだろうから社会的コンセンサスは得られないだろうし、「日本に生きる全ての人が希望を持てる社会にすべきだ」は申し訳ないが不可能だと思う。私が考えた再発防止策では、前述の通り日本社会全体がEI(心の知能)を高めるべきとさせて頂いた。

2019年5月26日日曜日

医療費削減、予防医療は役立つか?