2013年8月1日木曜日

瞑想の裏技




久し振りにビートルズの「アクロス・ザ・ユニヴァース」を聞いたら、子供時代に愉しんでいた幽体離脱体験を思い出した。大学生の2年の頃、友人からビートルズの"Let It Be" レコードを借りて聞いてみた。子供の頃の妄想癖からか、元より夢見がちなボーッとした性格だからか音楽に映像が見えてしまう「 共感覚」を持っている。そこで、子供の頃の一時期だけ体験した幽体離脱体験をリアルに思い出した。


Across the Universe

Words are flowing out like endless rain into a paper cup,
They slither while they pass, they slip away across the universe
Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my open mind,
Possessing and caressing me.
Jai guru de va om
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.

Images of broken light which dance before me like a million eyes,
That call me on and on across the universe,
Thoughts meander like a restless wind inside a letter box they
Tumble blindly as they make their way
Across the universe
Jai guru de va om
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.

Sounds of laughter shades of earth are ringing
Through my open views inviting and inciting me
Limitless undying love which shines around me like a
Million suns, it calls me on and on
Across the universe
Jai guru de va om
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.

大人になった今も変わったピーター・パンだが、子供時代の私も負けず劣らず変わったガキだった。小学校低学年の頃は、瞑想を上手くやり遂げて悟りを開く事を目的に生きていた。「うしろの百太郎が連載される前の事だから昭和50年代の心霊現象ブーム(スピリチュアル・ブーム)の前の事である。キッカケは父が買い与えた偉人伝全集だった。

庭に桜の木も無かったし、囲炉裏で火傷するのも嫌だったし、今川家の人質になるのも難しいし、凄い子供時代を過ごしても大人になるまで何も出来ないのも面倒なので、兎に角、瞑想を上手くやり遂げて悟りを開く事に決めたのである。

瞑想 - Wikipedia


釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が仏陀(悟りを開いた人)となったのは、厳しい修行に依るのではなく瞑想に依ってであると説いた。

ゴータマ・シッダッタ - Wikipediaの「生涯」の項を要参照



瞑想と云っても,「単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものから、絶対者()をありありと体感したり、究極の智慧を得るようなものまで、広い範囲に用いられる。ただし、超越瞑想に限っては、心を集中させることは一切しない。」とWikiにあるが、悟りを開くために行う瞑想は「比較的日常的なもの」では無いのだろう。




私が座禅を習ったのは、大学生時代に通った静岡県三島市の龍沢寺で、だった。それ以前に座禅や瞑想を習ったことはなかったが、自己流の瞑想はベテランだった。何故なら、子供時代に読んだ多くの偉人伝の登場人物達の中で、私でも実践できそうな事と云えば唯一瞑想だけだったからだ。瞑想で悟りが開けるなら・・・子供でも簡単!と思ったのは事実である。




その子供時代の瞑想のイメージは・・・「心の中を空にする」事だと、読んだ偉人伝の「無念無想の境地」と云う言葉を勝手に理解した。だが、何をどう頑張ろうとも「無念無想の境地」には達せない事が判った。マメな性格が災いして目が覚めたら布団から起き出す前に瞑想を試み、夜寝る前にも布団に入るや否や瞑想を試みて1〜2年経った頃に諦めた。私には上手く瞑想する能力が無い人間であり釈尊とは違うのだと気が付いた。釈尊も厳しい戒律や心身を痛めつける激しい修行では人生の「苦」を解決する事は出来ないと気が付いた様に、私も釈尊と同じ瞑想という方法では悟りは開けないと気が付いたのだ。だが、もはや1〜2年続けていた瞑想もどきの習慣を無くする事は出来ず、逆に「無念無想の境地」を脅かす邪念を愉しむ事を日課とするようになっていた。それに・・・父に聞いても、小学校の先生に聞いても、友達に聞いても、息を止めていられる1分間さえも何も考えない何も思い浮かべない状態の心を続ける事は誰にも出来ないと云う事を知ってしまった。私だけではなく大多数の人間が「無念無想の境地」に到達する事は出来ないのだと知った。これは悔しいと同時に、チョット爽快な発見であった。私達のような普通の人間には「無念無想の境地」は、瞑想による悟りは、無理なんだと判った。結局、偉人伝に出て来た他の主人公の様に釈尊も天賦の才を持っていたが故に仏陀に成り得たのだ。な〜んだ、流石に偉人伝、特別な人が特別な幸運に恵まれて特別な偉業を成し遂げる話だったのだ。




トコロが、小学校2年生の夏休みに瞑想の本質を知ってしまった。瞑想とは、「無念無想の境地」を目指す事ではなく、自分の心から「私」と云う存在を消す事だと母方の祖父だったかの葬式の折に母方の菩提寺の住職が教えてくれた。長い期間の修行を積んでも、何もせずに「無念無想の境地」には達せないので、幾つかの方法を使うと教えてくれた。おかんきで唱える真言の内、私の産まれ年に合った虚空蔵菩薩の智慧を使って記憶力を増す修法(まじない)である「虚空蔵求聞持法」に用いられる真言「ノウボウ アキャシャギャラバヤ オンアリキャマリボリソワカ」を唱えながら瞑想をしてみたらとアドバイスを貰った。ほぼ毎日100回も200回も声に出して唱えながら瞑想を試みた。確かに邪念と云うか雑念は出て来ないが本人的にも騒がしいので声を出さずに、心の中で呟くようにして瞑想を試みた。上手くいったとも云えるのだが、特に今までの雑念だらけ邪念迸りの瞑想とは違うのだが、何も得られた気がしない。


幸いな事に翌年(?)再び母方の祖父が亡くなった通夜の席で(罰当たり?)・・・真言を心の中で唱えながら毎日瞑想をやっているけど上手く瞑想できているのか判らないと和尚さんに聞く事が出来た。真言を唱える以外にも、昇月法(鑑月法)と呼ばれる満月をイメージする事に集中しながら瞑想をする方法や、逆に雑念や邪念を見つめる方法を教わった。真言を唱えるのも、真ん丸な満月を心の中に強くイメージし続けるのも、要は、他の神経を集中しなければ上手くいかない事を並行してやりながら雑念を追い払う方法だ。マルチタスクに馴れていない内は雑念や邪念を追い払う事が出来ても、心がマルチタスクに動くようになってしまうと真言を唱えながらでも昇月法をやりながらでも雑念や邪念がチョロチョロ出てくるのだそうだ。そうすると、別の神経を使うタスクを上に重ねていき心の処理能力をオーバーフローさせて無念無想を実現しようとするモノである。



実は、古義真言宗に伝わる修行法として、雑念や邪念を封じる瞑想方法があるが誰にも内緒にするなら教えてあげると云われた。あれから40年なので時効だろうが、この裏技で一気に瞑想の達人となる事が出来た。

雑念や邪念は古い寺の壁に沢山開いた穴から顔を出すネズミの様なモノだ。見ないふり・見えてないふりをしてネズミを居ない事にすると云う方法ではなく、ネズミが出てくる穴をジッと睨み付けてネズミが出て来られないようにする方法を教わった。

心の中から私のモノ・私に起因するモノを総て消してしまおうとすると出てくる雑念や邪念は総て、私の事や私の感情や私の悩みや私の夢・・・総て私に関係する様々な事象の事が真っ暗にした心のスクリーンに登場しようとする。つまりネズミ=雑念や邪念=私の心の一部である。心のスクリーンを、半眼で眺めて(広い視野で全体を見て)、スクリーンのどの部分から何かが現れようとするかをジッと観察していれば良いのだ。ドコから雑念が出てくるのか、その登場の瞬間を見逃さないように監視するダケである。こうして観察していると、私に無関係な事柄は殆ど現れてこない事に気が付く。お腹が空いた・・・とか、お尻が痒い・・・とか、アニメのキャラクターとか、様々な雑念や邪念が浮かびますが総てが自分の記憶や感情や感覚であり、自分とは関係のないモノ(登場の瞬間は、自分とは無関係なモノを装っていても)と思えても、暫く放置すれば馬脚を現し自分の何かだと気が付くのだ。

こうして、雑念や邪念は総て自分自身の何かだと気が付いたら、「次の雑念は何?」「次の雑念は、どこから現れる?」と心に念じると・・・自分の心から、自分に由来する感情や感覚が消えた状態・・・瞑想状態に入る事ができる。その内に、次の雑念探しを心に念じなくても、自然に真っ黒なスクリーンは真っ黒なままでいられるように成る。(ま、馴れない内は、真っ黒なままスクリーンが風で揺れたり、明るさが微妙に変わったり、光源が移動したり・・・と、私の雑念は元気一杯だったが・・・)小学校2年生の夏休みには「無念無想の境地」と云うか釈尊が行った「瞑想」に辿り着いたと判った。

瞑想の中でなら自由に重力の軛から解き放たれ、瞑想の中でなら地球周回軌道から離れて月を目指すアポロ宇宙船の周囲を飛ぶ事も出来たのだ。その後の瞑想の練習の繰り返しの中で、小学校の授業中でも瞑想に入って自由に空を飛ぶ事も出来るようになった。(その時は、居眠り中だと思われた教師に指名されてもシャキと回答を答えられた)その後、2年後の小学校4年生の夏休みの終わり頃に幽体離脱の能力を失うまで、自由に地球全体・地球近傍を飛び回っていた。

その宇宙を横切る感覚を、大学生になって初めて聞いたビートルズの「アクロス・ザ・ユニヴァース」で思い出し、もう一度幽体離脱体験が出来ないかと龍沢寺の座禅教室に通う事になったのだが・・・、禅定の課題である「手火鉢の中から宇宙を観る」事が精一杯で、小学校2〜3年の頃には朝飯前で出来ていた自由に宇宙を飛ぶ幽体離脱能力を取り戻す事が出来なかった。小学生時代の瞑想では思索を深めると云うよりも、現世での娯楽の代わりに力を使った嫌いがあり、導師に教わって座禅を習い始めてからは・・・良く云えば内省的、普通に云えば内向的な、有り体に言えば根暗な傾向が強かったのだろう。本人の希望であった自由に宇宙を飛び回る能力を手に入れると云うのは導師にも御賛同が得られ難かった。何せ臨済宗妙心寺派なので臨済宗と云っても室町幕府系ではなく林下であり、逆に中国禅の流れを汲む看話禅だから・・・つい理屈を捏ねてしまう一言居士を習得してしまったのだろうか?

尚、瞑想を深めると・・・瞑想から抜けられなくなる事がままある。ハッと気が付いたら12時間程経ってたなんて経験も何度も在ったモノだ。ビートルズは"草"を使う瞑想からインスピレーションを得た楽曲が多いそうで、"瞑想"から醒めなくなった事を唄ったこんな曲もある。最近ではスピリチュアル・ブームの性で瞑想道場なんてモノがチラホラ見られるようになってきた。だが、やはり瞑想は自力で見出すモノだと思っている。他力本願で瞑想を教わると・・・要は暗示により瞑想状態に入れて貰う事に成り兼ねず、効率を上げる為に被暗示性を高められてしまう事に成る。そう云う風に人は出来ているのだから仕方が無い。悪意の導師なら高い修行料をふんだくるのだろうし、悪意のない自覚のない導師なら瞑想を行い易くする為に弟子の被暗示性を高めて・・・瞑想が出来る様になっても他人の言説に影響を受けやすい危険な状態で世の中に放り出される事にも成り兼ねない。

瞑想を上手くやり遂げても悟りを開くのは難しいみたいなので、瞑想は単に心身の静寂を取り戻すために行うような比較的日常的なものに留めておく事をお薦めしたい。



Dear Prudence, won't you come out to play
Dear Prudence, greet the brand new day
The sun is up, the sky is blue
It's beautiful and so are you
Dear Prudence, won't you come out to play

Dear Prudence, open up your eyes
Dear Prudence, see the sunny skies
The wind is low, the birds will sing
That you are part of everything
Dear Prudence, won't you open up your eyes

Look around, round
Look around, round, round
Look around

Dear Prudence, let me see you smile
Dear Prudence, like a little child
The clouds will be a daisy chain
So let me see you smile again
Dear Prudence, won't you let me see you smile

Dear Prudence, won't you come out to play
Dear Prudence, greet the brand new day
The sun is up, the sky is blue
It's beautiful and so are you
Dear Prudence, won't you come out to play












いとしのブルーデンス 外へ遊びにこないか
いとしのブルーデンス 真新しい一日に挨拶おし
陽が昇り 空は青く澄んで







君みたいに美しい日だ



いとしのブルーデンス 外へ遊びにこないか 































いとしのブルーデンス 目を開けて
いとしのブルーデンス 晴れた空をごらん
風はやさしく 小鳥はさえずる



君もこの世界の一部なんだ
いとしのブルーデンス さあ 目を開けて






                       
まわりを見てごらん







君を取り巻く世界をごらん










君のまわりを








             











いとしのブルーデンス 笑顔を見せて



いとしのブルーデンス 幼子のように

雲がヒナギクの花輪になるよ


だから もう一度わらってごらん

いとしのブルーデンス 笑顔を見せておくれ









         







いとしのブルーデンス 
外へ遊びにこないか

いとしのブルーデンス 真新しい一日に挨拶おし
陽が昇り 空は青く澄んで
君みたいに美しい日だ
いとしのブルーデンス 外へ遊びにこないか

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