2013年3月6日水曜日

マスコミに依る洗脳方法

前提として、私はこんな風に考えていると知って頂きたい。

別ブログ過去記事「人の記憶はドンドン書き換わっていくらしい 2011-10-28 21:48:17 | Innocent joke

別ブログ過去記事「(その2)人の記憶はアテにならないとして・・・ 2011-10-28 23:07:00 | Innocent joke

別ブログ過去記事「(その3)大きく脱線・・・人工知能萌えな私 2011-11-03 19:59:02 | Innocent joke

別ブログ過去記事「(その4)受動意識仮説に於ける<私>とは 2011-11-07 22:45:38 | Innocent joke


「『自分自身』とは何か?」とは人類永遠のテーマである。

古くから『自分自身』とは「自分の生きてきた証としての全記憶」とか、「自分の全記憶に影響された『何か』」とかと考えられてきた。だが、(その1)では、「『自分が忘れずに覚えている事』=『記憶』は疑いようのない真実」だと誰しもが思いがちだが、それは幻想に過ぎず、様々な研究から「記憶の再固定化(memory reconsolidation)」で度々書き換わっていく事が判明していて、「自分が忘れずに覚えている事」=「記憶」は真実でも事実でもないらしい事、そして、その「記憶の再固定化」は自分自身の実体験に因らずともTV視聴と云うお手軽な方法で「虚偽の体験効果(false experience effect)」で次々に書き換わってしまう事を書いた。

「自分自身」の拠り所である自分の全記憶がアテにならないとした上で(その2)では、「我思う、故に我在り」だと信じられてきたが、実際の観測結果から「我在り、故に我思う」では無いかと云う「受動意識仮説」が現実視されつつある事を書いた。『自分自身」だと認識している存在は、ヒトの意識が進化の過程でエピソード記憶を必要とした為に便宜上生み出されたバーチャルなモノに過ぎず、もし馬を操る御者だと認識するバーチャルな存在を『自分自身』の司令塔だと強弁するのなら単なる観察者に過ぎない事になると書いた。

その3)は単なる脱線だが、「受動意識仮説」に触れた故小松左京氏の著作から「無意識」とは「全体を統べる代表者の居ない『複数の様々な自動処理群」」である可能性を見出した。

そして(その4)では、「受動意識仮説」の登場以前から薄々感じられていた「自分自身」の脆さを、人々は古くから宗教や、最近ではクオリア理論を拠り所に逃れてきた。クオリア理論は科学的な結論と云うよりも、創造主としての神を信じるか信じないかは別として、生き物には生物として機械とは置き換え不可能な何かが宿っているとした方が・・・命の有り難さは高まると云う願望に過ぎない。(その3)で登場した人工知能は自己の同一性に固執せず自らの素子や回路の変更を鷹揚に許容する存在として書かれていたが、最新の研究では我々ヒト属の脳も「人間の脳細胞では遺伝子組み換えが高頻度に起き、各細胞ごとにゲノム(全遺伝情報)が異なっていることを英エディンバラ大学や理化学研究所などによる国際チームが発見した。」の通り、自己の同一性に固執せず遺伝子レベルでの改変を積極的に行う進化を選んでいた様だ。

「自分自身」が例えバーチャルなモノで在ったとしても、自分の利益の為に遺伝子レベルから素子や回路を改変し記憶を改変し価値観を改変する適応をしてきた。そして、社会の進歩と共に「自分自身」だけの判断基準では無い全体最適化にも適応しつつあるヒトは、その時々の最新の精神科学の知見に基づく方法でマスコミから洗脳を受けているのカモ知れない。

我々の決定や行為の多くが、観察者である「自分自身」が決定したと思う以前に意識がアクセスできない潜在過程(潜在意識)の決定として追認しているに過ぎない。我々は、決定や行為の後ですら決定や行為に至った真の原因に関して直接接近する事は出来ない。

そして、我々は自らの決定や行為の直接的な原因を全く知らない場合に於いても、質問されれば「観察者=自分自身」のエピソード創出能力に因って、尤もらしい回答をする事が広く知られているが、それが正確ではない事は種々の実験により明らかとされている。そして更に、自分の態度や情動と云った純粋に内的な状態や、自らの自尊心やステロタイプと云った社会心理学的概念が自己報告型の測度では測定できない。

「観察者=自分自身」は潜在的過程の決定後に知らされているに過ぎず、しかも困った事に「観察者=自分自身」が決定したと思い込んでしまう風に造られているのだ。古典的な認知的斉合性理論は潜在的過程を説明する手段としてなら使えるが、顕在的過程を説明する事はできないのだ。


ココまでが長〜い前置きだ。

社会学と云う学問では古くよりマクロデータに基づく社会調査が行われてきたが、最近では調査者の主観に左右されやすいと云うミクロデータの欠点を好き嫌いと云う簡潔な設問で主観を廃した一種の実験心理学的なデータとして扱う新しい範疇の社会学が登場してきた。こうして生身の人間の好悪感情に近しいミクロデータの方が社会学をマーケティングの「売れる仕組み」造りに使い易かった事から進歩し、「売れる仕組み」と云う狭義のマーケティングから大衆の価値観の書き換えにも用いられる様になっているのカモ知れない。TVの歴史は、こうした実験心理学に基づく洗脳手法の進化の歴史でもある。

ヒトは、接触回数が多いモノの方を好きになる傾向が知られていて、マスコミはスポンサーに対して繰り返してCMを挿入するメリットを説いてきた。だが、マーケティング丸分かりのミエミエのCMでは宣伝効果が逆効果となる事が判明し始め、制作費の嵩む魅せるCM、好感度の高いCMを競う様になった。だが、世界的不景気の中でスポンサーもスポンサー料の減額を余儀なくされデバイスの低廉化に因る録画視聴の急速な普及からCM飛ばしの悪習が業界を席巻しつつある。 更に、制作費をケチった番組が増えた事で若者のTV離れが加速しつつある。

サブリミナル効果の説明の際に引用される実験(1957年9月から6週間にわたり、市場調査業者のジェームズ・ヴィカリ(James M. Vicary)は、ニュージャージー州フォートリーの映画館で映画「ピクニック」の上映中に"実験"を行なったとされている。ヴィカリによると、映画が映写されているスクリーンの上に、「コカコーラを飲め」「ポップコーンを食べろ」というメッセージが書かれたスライドを1/3000秒ずつ5分ごとに繰り返し二重映写(フィルムのフレームを差し替えたと信じている人が多いが誤解である)したところ、コカコーラについては18.1%、ポップコーンについては57.5%の売上の増加がみられたとのことであった)の効果の有無は有耶無耶になっている。様々な検証方法で、物品を購入させるとか電話を掛けさせると云う直接的な暗示効果が立証される事は無かったが、脳波測定等で閾下刺激を検証すると『自分自身=観察者』には気が付かれずに精神・身体に影響を及ぼす事が明確に判明した。既に知られている心理学的手法を複数組み合わせる事で相互の作用を強化する事も判った。その結果、北米では1974年にサブリミナル広告は「人を欺き公共の利益に反する」と禁止されるに至った。我が国では1995年にNHKが、1999年には民放連も、それぞれの番組放送基準でサブリミナル的表現方法の禁止を明文化している。







   日本放送協会 国内番組基準第1章 放送番組一般の基準
  第11項 表現 
    6 通常知覚できない技法で、潜在意識に働きかける表現はしない。



   日本民間放送連盟 放送基準第8章 表現上の配慮
 (59) 視聴者が通常、感知し得ない方法によって、なんらかのメッセージの伝達を意図する手法(いわゆるサブリミナル的表現手法)は、公正とはいえず、放送に適さない。


だが、我が国では禁止されている筈のサブリミナル的表現が日常的にTVに登場している様だ。サブリミナル的表現は教科書通りに意識できない短時間に映像が挿入されるだけとは限らない。内規を守り「視聴者が通常知覚できない技法」は使わず「普通に知覚できる技法で、潜在意識に働きかける表現」に心を砕いているのだ。

CMの古典的手法である「何回も見聞きすると、その対象への認知処理が流暢になる」を利用する。但し、この何回も見聞きする内容は「購入を勧めたり、決断を迫ったりする視聴者の利益不利益に抵触する内容では一切なく問い掛け形式のアドバイス」として提示される。

このアドバイスを何度も繰り返して見聞きする事で、「好ましい」とか「信じられる」とかの感情に誤帰属してしまう。こうして前提となるステレオタイプ(ステロタイプ)の考え方を、植え込まれてしまう。このステレオタイプの考え方は可能な限り単純でその真偽を疑い難い内容を選ぶ。つまり、(マスコミが言い出した考え方なのに)世論的一般論と云う形をとる。

こうして、感情の閾下から前提情報を信じさせる。何故なら、閾上刺激だと神経処理の負荷が大きくなり「本当のことだろうか?」と云う疑問が生じ易くなる。(素直に受け入れられない可能性が高まる)こうして植え込まれた前提情報の事を、「認知バイアス」と呼ぶ。

これが完了した集団は、特定の閾下刺激に因り、特定の感情を喚起され、「近似ショートカット」として特定の決定や行為を行う様になる。 < 今、ココ?

マスコミに支配される未来世界を描いた映画『スターシップ・トゥルーパーズ』は、ナチス・ドイツの宣伝映画であった「意志の勝利」のパロディだそうだが、今日我が国のマスコミは軍部に操られているのではなく独自の利益を追求している風に見える。もう、「当たり前の事を疑ってみる」だけでは対処できないのカモ知れない。


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